神学大全第一部第十三問題第九項
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第九項

[二八八五九]第一部第十三問題第九項第一異論

第九のものについては次のように進められる。 「神」というこの名前は共通であり得ると思われる。

なぜなら、 名前によって表示される事物が共通しているいかなるものも、 名前それ自体もまた共通しているからである。 ところで、すでに述べられたように、 「神」というこの名前は神的な本性を表示しているのであり、 『ペトロの手紙二』第一章にある、 「彼は偉大で貴重な約束を私たちに与えましたが、それは、 このことによって私たちが神的な本性を分かち合う者となるためです」という言葉が示しているように、 その神的な本性は、他のものと共通であり得る。 したがって、「神」というこの名前は共通であり得る。

[二八八六〇]第一部第十三問題第九項第二異論

さらに、共通ではあり得ないものは固有名詞のみである。 ところで、「神」というこの名前は、 固有名詞ではなく普通名詞である。 このことは、『詩編』第八十一編にある、「私は言った。 『あなたたちは神々である』と」という言葉が示しているように、 それが複数形を持つということから明らかである。 したがって、「神」というこの名前は共通であり得る。

[二八八六一]第一部第十三問題第九項第三異論

さらに、すでに述べられたように、「神」というこの名前は、 働きにもとづいて付与されている。 ところで、たとえば「善なる者」や「知者」等々のような、 働きにもとづいて、 あるいは結果にもとづいて神に付与された他の名前は、 共通であり得る。 したがって、「神」というこの名前も、共通であり得る。

[二八八六二]第一部第十三問題第九項反対異論

しかし反対に、『知恵の書』第十四章で、 「彼らは共通ではあり得ない名前を木と石に付与した」と述べられているが、 これは神性の名前について語っているのである。 したがって、 「神」というこの名前は共通ではあり得ない名前である。

[二八八六三]第一部第十三問題第九項主文

私は答えて言わなければならない。 ある種の名前は二通りの方法で共通であることができる。 一つの方法は固有のものであり、 もう一つの方法は類似性によるものである。 固有の方法で共通であり得るというのは、 名前の全体的な意味に即して多くのものに共通であり得るということである。 それに対して、類似性によって共通であり得るというのは、 名前の意味の中に包含されているもののうちの何かに即して共通であり得るということである。 たとえば、「獅子」というこの名前は、 「獅子」というこの名前が表示している本性がそれらのうちに見出されるすべてのものには、 固有の方法で共通しているのであり、それに対して、 たとえば大胆さや勇敢さのような獅子の何かを分有しており、 比喩的に「獅子」と呼ばれる者たちには、 類似性によって共通であり得ているのである。

ところで、 どのような名前が固有の方法で共通であり得るかということを知るためには、 次のことが考察されなければならない。 すなわち、個別的な個体において存在し、 そのことによって個体化されているところのいかなる形相も、 実在的であるか、 あるいは少なくとも概念的であるかのいずれかにおいて、 多くのものに共通である。 たとえば、人間の本性は、 実在的にも概念的にも多くのものに共通であるが、それに対して、 太陽の本性は、実在的には多くのものに共通ではなく、 単に概念的にのみ多くのものに共通である。 なぜなら、太陽の本性は、 複数の個体において存在するものとして理解されることができるからである。 その理由は、知性は、いかなる種の本性も、 個物からの抽象化によって理解するからである。 したがって、種の本性は一つの個別的な個体において存在するのか、 それとも複数の個体において存在するのかということは、 種の本性の理解の外にある。 したがって、種の本性は、種の本性の理解を保持したままで、 複数のものにおいて存在するものとして理解されることができる。 しかし、個物は、 それが個物であるということそれ自体にもとづいて、 他のすべてのものから区分されている。 したがって、 何らかの個物を表示するために付与されたいかなる名前も、 実在的にも概念的にも共通ではあり得ない。 なぜなら、「この個体」の複数性は、 把握のうちに属することができないからである。 したがって、何らかの個体を表示しているいかなる名前も、 固有の方法では多くのものに共通ではあり得ず、 単に類似性によってのみ共通であり得る。 たとえば、ある人は、 たとえば勇敢さのようなアキレスの特性のうちの何かを持っている限りにおいて、 比喩的に「アキレス」と呼ばれることができる。

それに対して、 何らかの個体によって個体化されているのではなく、 それら自身によって個体化されている形相(すなわち、 それらは自存する形相であるから)の場合においては、もしも、 それらはそれら自身において存在する、 ということにもとづいてそれらが理解されるならば、 実在的にも概念的にも、それらは共通であることができず、 個物について述べられたことと同様に、 おそらく類似性によって共通であることができるのである。 しかし、我々は、 それ自体によって自存する単純な形相をあるがままに知性認識することはできず、 質料において形相を持つ複合的な諸事物の様態においてそれらを知性認識するのであるから、 すでに述べられたように、我々は、 何らかの個体において本性を表示する具体的な名前をそれらに付与する。 したがって、名前の性質に関する限りにおいては、 複合的な諸事物の本性を表示するために我々によって付与される名前についても、 自存する単純な本性を表示するために我々によって付与される名前についても、 同じ説明が成り立つ。

したがって、すでに述べられたように、 「神」というこの名前は、 神的な本性を表示するために付与されたものであり、しかも、 すでに示されたように、 神的な本性は多数化され得るものではないのであるから、 「神」というこの名前は、実在的には共通ではあり得ないが、 見解においては共通であり得る、ということが帰結する。 これは、「太陽」というこの名前が、 多くの太陽があると主張する人々の見解に従うならば共通であり得るということと同様のことである。 そして、『ガラテヤの信徒への手紙』第四章で、「あなたがたは、 本性において神々であるのではない者たちに仕えていました」と述べられ、 『註解』で、「彼らが神々であるのは、本性においてではなく、 人間の見解においてである」と述べられているのも、 この意味においてである。 それにもかかわらず、「神」というこの名前は、 それの全体的な意味に即してではなく、それのうちの何かに即して、 ある種の類似性によって共通であり得る。 たとえば、「私は言った。 『あなたたちは神々である』と」という言葉が示しているように、 類似性によって神的な何かを分有している者たちは「神々」と呼ばれる。

それに対して、もしも、本性の側からではなく、 「この何か」として考察される限りにおける個体の側から、 神を表示するために付与された名前があったならば、その名前は、 いかなる意味においても共通ではあり得ないであろう。 たとえば、ヘブライ人たちの間での四文字から成る名前は、 おそらくそれである。 そして、もしも誰かが、太陽に対して、 この個体を明示する名前を付与したならば、同様のことになる。

[二八八六四]第一部第十三問題第九項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 神的な本性は、類似性の分有によってではないならば、 共通ではあり得ない。

[二八八六五]第一部第十三問題第九項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 たとえ、 神自身は実在的には普遍的でもなく個別的でもないとしても、 「神」というこの名前が普通名詞であって固有名詞ではないのは、 それが、神的な本性を、 それを持つ者の中にあるものとして表示しているからである。 なぜなら、名前は、 諸事物のうちにある存在の様態に付随するのではなく、 我々の認識のうちにある限りにおける存在の様態に付随するからである。 それにもかかわらず、事物の真理に従うならば、 「神」という名前は、 「太陽」というこの名前について述べられた意味において、 共通ではあり得ない。

[二八八六六]第一部第十三問題第九項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 「善なる者」や「知者」等々というこれらの名前は、 神から被造物へ発出する完全性にもとづいて付与されたものであるが、 しかし、神的な本性を表示するために付与されたものではなく、 それらの完全性を無条件的に表示するために付与されたものである。 したがって、事物の真理に従うならば、 それらの名前は多くのものに共通であり得る。 しかし、「神」というこの名前は、 我々が絶えず経験している神に固有の働きにもとづいて、 神的な本性を表示するために付与されたものである。

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