神学大全第一部第十三問題第七項
前のページ次のページ

第七項

[二八八三九]第一部第十三問題第七項第一異論

第七のものについては次のように進められる。 被造物に対する関係を含意する名前は、 神について時間的な意味で述べられるのではないと思われる。

なぜなら、共通して述べられているように、 すべてのこの種の名前は神的な実体を表示しているからである。 だからこそ、アンブロシウスも、この「主」という名前は、 神的な実体である権能の名前であり、「創造者」は、 神の本質である彼の働きを表示している、と述べているのである。 ところで、神的な実体は、時間的ではなく永遠である。 したがって、この種の名前は、神について、 時間的な意味で述べられているのではなく、 永遠という観点から述べられている。

[二八八四〇]第一部第十三問題第七項第二異論

さらに、時間的な意味で何かに適合するものは、 それが何であろうと、「なった」と述べられることができる。 たとえば、時間的な意味で白いものは、 「白くなる」と述べられることができる。 ところが、「なった」ということは、神には適合しない。 したがって、神については、 いかなるものも時間的な意味で述語とされることはない。

[二八八四一]第一部第十三問題第七項第三異論

さらに、もしも何らかの名前が、 それらが被造物に対する関係を含意しているということを理由として、 神について時間的な意味で述べられているのであるならば、 被造物に対する関係を含意するすべての名前について、 同じ推論が成り立つと思われる。 ところが、被造物に対する関係を含意している一部の名前は、 神について永遠という観点から述べられている。 たとえば、 「私は不断の愛をもってあなたを愛した」という『エレミヤ書』第三十一章の言葉によれば、 彼は、永遠という観点から被造物を知り、そして愛したのである。 したがって、「主」や「創造者」のような、 被造物に対する関係を含意している他の名前も、 神について永遠という観点から述べられている。

[二八八四二]第一部第十三問題第七項第四異論

さらに、この種の名前は関係を表示している。 したがって、その関係は、神における何かであるか、 あるいは被造物のみにおける何かであるかのいずれかでなければならない。 ところが、その関係が被造物のみにおいて存在するということは、 あり得ない。 なぜなら、もしもそうであったならば、 被造物において存在する対立する関係によって神が「主」と命名されたことになるが、 しかし、いかなるものも、 自身と対立するものによって命名されることはないからである。 したがって、その関係は、 神における何かでもあるということにならざるを得ない。 ところで、神においては、 いかなるものも時間的な意味で存在することはできない。 なぜなら、彼は時間を越えて存在しているからである。 したがって、この種の名前は、 神について時間的な意味で述べられているのではないと思われる。

[二八八四三]第一部第十三問題第七項第五異論

さらに、何かが関係的に述べられるのは、 関係にもとづいてのことである。 たとえば、 「君主」と述べられるのは統治権にもとづいてのことであり、 それは、 「白い」と述べられるのが白さにもとづいてのことであるのと同様のことである。 したがって、もしも、 統治権という関係が神のうちに実在的には存在せず、 概念的にのみ存在するのであるならば、 神は実在的には君主ではないということが帰結するが、 これが偽であるということは明らかである。

[二八八四四]第一部第十三問題第七項第六異論

さらに、 本性において同時に存在しているのではない関係的なものにおいては、 一方は、他方が存在しないとしても存在することができる。 たとえば、『カテゴリー論』の中で述べられているように、 知られ得るものは、知識が存在しないとしても存在する。 ところで、神と被造物について述べられる関係的なものは、 本性において同時に存在しているのではない。 したがって、何らかのものは、たとえ被造物が存在しないとしても、 神について、被造物に対して関係的に述べられることができる。 したがって、「主」や「創造者」のようなこの種の名前は、 神について、永遠という観点から述べられているのであり、 時間的な意味で述べられているのではない。

[二八八四五]第一部第十三問題第七項反対異論

しかし反対に、アウグスティヌスは『三位一体論』第五巻で、 「主」というこの関係的な呼称は、 時間的な意味で神に適合すると述べている。

[二八八四六]第一部第十三問題第七項主文

私は答えて言わなければならない。 被造物に対する関係を含意する一部の名前は、神について、 時間的な意味で述べられているのであり、 永遠という観点から述べられているのではない。

このことを明確にするためには、 次のことが知られなければならない。 すなわち、一部の人々は、 関係は実在の事物ではなく単に概念の事物にすぎないと主張したということである。 無論、この主張は、 事物それ自体が実在的な秩序と関係を相互に持っているということから、 偽であるということが明らかである。

それにもかかわらず、次のことが知られなければならない。 すなわち、関係は二つの項を必要とするのであるから、 それが実在の事物であるか概念の事物であるかということについて、 三通りの場合があることを示すことができるということである。

すなわち、時として、 関係がいずれの側からも単に概念の事物である場合がある。 それはすなわち、単に理性の把握によるものである場合を除いて、 秩序や関係が何らかのものの間に存在することができない場合である。 たとえば、 「ものはそのもの自身と同一である」と我々が言う場合がそれである。 なぜなら、理性は、 何らかの一つのものを二度にわたって把握することによって、 そのものを二つのものとして立て、そしてこの方法によって、 そのものがそのもの自身に対して持つ一種の関係を把握するからである。 このことは、 存在者と非存在者との間に存在するすべての関係についても同様であり、 理性は、何らかの項として非存在者を把握する限りにおいて、 それらの関係を形成する。 そしてこのことは、たとえば類と種との関係等々のような、 理性の作用に付随するすべての関係についても同じである。

さらに、 どちらの項に関しても実在の事物である一部の関係も存在する。 すなわち、どちらの項にも実在的に適合する何かに即して、 何らかの二つのものの間に関係が存在する場合がある。 たとえば、大と小、二倍と半分、等々のような、 量に付随するすべての関係について、このことは明らかである。 なぜなら、どちらの項においても量が存在しているからである。 また、たとえば、動くものと動かされるもの、父と子、 等々のような、能動と受動に付随する関係についても同様である。

さらに、関係が、 項のうちの一方においては実在の事物であるが、 他方においては単に概念の事物にすぎない場合もある。 これは、 二つの項が同一の秩序に属していないときにはいつでも生じることである。 たとえば、感覚と知識は、 可感的なものと可知的なものに関係づけられるが、 それらが自然的存在において実在する何らかの事物である限りにおいて、 それらは可感的なものと可知的なものの存在の秩序の外にある。 したがって、知識と感覚が、 事物を知ることまたは知覚することに向けて秩序づけられている限りにおいては、 それらのうちに実在的な関係が存在するが、 それ自身において考察された事物それ自体は、 この種の秩序の外にある。 したがって、知識や感覚に対する何らかの関係は、 それらの事物のうちに実在的に存在するのではなく、 知識や感覚の関係の項として、 それらの事物を知性が把握する限りにおいて、 単に概念的に存在するにすぎない。 哲学者が『形而上学』第五巻の中で、 それらが関係的に述べられるのは、 それらが他のものに関係づけられているからではなく、 他のものがそれらに関係づけられているからであると述べているのは、 このような理由によるものである。 そして同様に、 柱が動物の右側に位置している限りにおいてではないならば、 柱について「右側」とは述べられない。 したがって、この種の関係は、 柱においては実在的には存在しないが、 動物においては実在的に存在する。

したがって、神は被造物の全体的な秩序の外に存在し、 すべての被造物は彼に向けて秩序づけられていて、 その逆は成り立たないのであるから、 被造物は神自身に対して実在的に関係づけられているが、しかし、 神のうちには、 被造物に対する自身とのいかなる実在的な関係も存在せず、 被造物が彼に関係づけられている限りにおいて、 単に概念的に関係が存在するにすぎない、 ということは明らかである。 したがって、いかなるものも、 被造物に対する関係を含意するこの種の名前が神について時間的な意味で述語とされることを妨げない。 それは、彼の何らかの変化を理由とするものではなく、 被造物の変化を理由とするものである。 それはあたかも、柱が動物の右側になるのが、 その柱をめぐる何らかの変化が存在することによるものではなく、 動物の移動によるものであるのと同様のことである。

[二八八四七]第一部第十三問題第七項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 一部の関係的な名前は、 相対的な関係それ自体を表示するために与えられている。 たとえば、「主人」と「奴隷」、「父親」と「息子」、 等々がそれである。 それらは、「存在的に関係的な名前」と呼ばれる。 それに対して、一部の名前は、 何らかの関係に付随する事物を表示するために与えられている。 たとえば、「動かすもの」と「動かされるもの」、 「頭」と「頭を持つもの」、等々がそれである。 それらは、「言辞的に関係的な名前」と呼ばれる。 したがって、この意味において、 神の名前をめぐってもこの相違が考慮されなければならない。 なぜなら、たとえば「主」のような一部の名前は、 被造物に対する関係それ自体を表示しているからである。 そして、この種の名前は神的な実体を、 直接に表示しているのではなく、 それらの名前が神的な実体を前提とする限りにおいて、 間接的に表示している。 たとえば、統治権は権能を前提としており、 この権能は神的な実体である。 それに対して、一部の名前は神的な本質を直接に表示しており、 随伴的な意味で関係を含意している。 たとえば、「救い主」、「創造者」、 等々は神の働きを表示しており、この働きは彼の本質である。 しかし、どちらの名前も、第一の意味であろうと、 あるいは随伴的な意味であろうと、 それらの名前がそれを含意するところの関係に関しては、 神について時間的な意味で述べられているのであるが、 しかし、直接にであろうと、あるいは間接的にであろうと、 それらの名前が本質を表示している限りにおいては、 そうではない。

[二八八四八]第一部第十三問題第七項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 神について時間的な意味で述べられる関係が、 概念的にではないならば神のうちには存在しないのと同様に、 「なる」ということも「作られる」ということも、 彼をめぐってはいかなる変化も実在しないのであるから、 概念的にではないならば神について述べられることはない。 たとえば、「主よ、あなたは我々の避難所となった」という言葉は、 この意味である。

[二八八四九]第一部第十三問題第七項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 知性と意志の働きは、働くもののうちに存在する。 したがって、 知性または意志の働きの結果として生ずる関係を表示している名前は、 神について永遠という観点から述べられている。 それに対して、理解する方法において、 外部的な結果にまで発出する働きから生ずる、 たとえば「救い主」、「創造者」、等々の名前は、 神について時間的な意味で述べられている。

[二八八五〇]第一部第十三問題第七項第四異論解答

第四のものについては次のように言わなければならない。 神について時間的な意味で述べられるこの種の名前によって表示される関係は、 神のうちには単に概念的にのみ存在するのであるが、それに対して、 被造物のうちには、それに対立する関係が実在的に存在する。 また、 事物のうちに現実的に実在する関係によって神が命名されるということも、 不適切なことではない。 ただしそれは、 それに対立する関係が我々の知性によって神において共に理解される限りにおいてである。 この意味において、 神は被造物に対して関係的に述べられるのであるが、それは、 被造物が彼に関係づけられているからである。 哲学者が『形而上学』第五巻の中で、 「知られ得るもの」が関係的に述べられるのは、 知識がそれに関係づけられているからである、と述べているのは、 この意味においてである。

[二八八五一]第一部第十三問題第七項第五異論解答

第五のものについては次のように言わなければならない。 被造物が神に関係づけられているということを根拠として、 彼は被造物に関係づけられているのであり、また、 服従の関係は被造物のうちに実在的に存在しているのであるから、 神は単に概念的に君主であるのみではなく、現実的にも君主である、 ということが帰結する。 なぜなら、彼が「主」と呼ばれるのは、 被造物が彼に服従している様態によってであるからである。

[二八八五二]第一部第十三問題第七項第六異論解答

第六のものについては次のように言わなければならない。 関係的なものが本性において同時に存在しているか、 あるいはそうではないか、ということを認識するためには、 必ずしも関係的な名前がそれについて述べられているところの諸事物の秩序を考察しなければならないわけではなく、 考察しなければならないのは、関係的な名前それ自体の意味である。 なぜなら、たとえば、二倍と半分、父親と息子、等々のように、 もしも一方がそれの概念のうちに他方を含意しており、 その逆もまた成り立つのであるならば、その場合には、 それらは本性において同時に存在するからである。 それに対して、もしも、 一方はそれの概念のうちに他方を含意しているが、 その逆は成り立たないのであるならば、その場合には、 それらは本性において同時には存在しない。 「知識」と「知られ得るもの」は、後者の様態に属している。 なぜなら、 「知られ得るもの」は可能態において述べられるのであるが、 それに対して、「知識」は、習態において、 あるいは現実態において述べられるのであるからである。 したがって、知られ得るものは、それの意味の様態に関しては、 知識に先立って存在している。 しかし、 もしも「知られ得るもの」が現実態において解釈されるならば、 その場合には、それは現実態における知識と同時に存在する。 なぜなら、いかなる知られたものも、 もしもそれについての知識が存在しないならば、 存在しないのであるからである。 したがって、たとえ神が被造物に先立って存在するとしても、 それにもかかわらず、「主人」の意味のうちに、 奴隷を持つということが含意されており、 その逆もまた成り立つのであるから、 主人と奴隷というこれらの二つの項は、 本性において同時に存在する。 したがって、神は、自身に服従する被造物を持つよりも前には、 主人ではなかったのである。

神学大全第一部第十三問題第七項
前のページ次のページ