神学大全第一部第十三問題第六項
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第六項

[二八八三一]第一部第十三問題第六項第一異論

第六のものについては次のように進められる。 名前は、神についてよりも被造物についてのほうが、 より先の意味で述べられると思われる。

なぜなら、哲学者によれば、 名前は知性認識の記号なのであるから、 我々が何かを認識する限りにおいて、 我々はそれに応じてその何かに命名するのであるからである。 ところで、我々は、神よりも被造物のほうを、より先に認識する。 したがって、我々によって付与される名前は、 神よりも被造物のほうに、より先の意味で適合する。

[二八八三二]第一部第十三問題第六項第二異論

さらに、 ディオニュシオスが『神名論』の中で述べているところによれば、 我々は、被造物にもとづいて神に命名する。 ところで、たとえば「獅子」や「岩」等々のように、 被造物から神へ転用された名前は、 神についてよりも被造物についてのほうが、 より先の意味で述べられている。 したがって、 神についても被造物についても述べられるすべての名前は、 神についてよりも被造物についてのほうが、 より先の意味で述べられる。

[二八八三三]第一部第十三問題第六項第三異論

さらに、 神についても被造物についても共通に述べられるすべての名前は、 ディオニュシオスが述べているように、 万物の原因としての神について述べられている。 ところで、 それが原因であるという理由で何かについて述べられるものは、 それについて、よりあとの意味で述べられている。 たとえば、健康の原因である薬よりも動物のほうが、 より先の意味で「健康なもの」と述べられる。 したがって、この種の名前は、 神についてよりも被造物についてのほうが、 より先の意味で述べられる。

[二八八三四]第一部第十三問題第六項反対異論

しかし反対に、『エフェソの信徒への手紙』第三章では、 「天においても地においても、 いかなる父性も彼にもとづいて命名されるところの、 我々の主であるイエスの父に向かって、 私は私の膝を屈めます」と述べられている。 そして、神と被造物について述べられる他の名前についても、 同じ推論が成り立つと思われる。 したがって、この種の名前は、 被造物についてよりも神についてのほうが、 より先の意味で述べられる。

[二八八三五]第一部第十三問題第六項主文

私は答えて言わなければならない。 複数のものについてアナロギア的に述べられるすべての名前においては、 すべてのものが一つのものとの関係によって述べられる、 ということは必然であり、 したがって、その一つのものは、 すべてのものの定義の中に置かれなければならない。 また、『形而上学』第四巻の中で述べられているように、 名前が表示する概念は定義であるから、そのような名前は、 他のものの定義の中に置かれたものについてはより先の意味で述べられ、 それ以外のものについては、 その第一のものに対してより大きくあるいはより小さく近づいている序列に応じて、 よりあとの意味で述べられる、 ということは必然である。 たとえば、動物について述べられた「健康なもの」は、 動物のうちに健康を生み出す限りにおいて「健康なもの」と述べられる薬について述べられた「健康なもの」の定義にも属しているし、 動物の健康の徴候である限りにおいて「健康なもの」と述べられる尿について述べられた「健康なもの」の定義にも属している。

したがって、同じ理由によって、 神について比喩的に述べられるすべての名前も、 神についてよりも被造物についてのほうが、 より先の意味で述べられる。 なぜなら、神について述べられるものは、 そのような種類の被造物に対する類似性以外のいかなるものも表示しないからである。 たとえば、草原について述べられた「笑う」は、 比例の類似性にもとづいて、人間が笑うときと同様に、 花が咲くときに草原も魅力を持つ、 ということ以外のいかなることも表示しない。 同じ理由によって、神について述べられた「獅子」という名前も、 獅子がその業において働くのと同様に、 神も彼の業において力強く働く、 ということ以外のいかなることも表示しない。 したがって、それらの名前が神について述べられる限りにおいて、 それらの名前の意味は、 被造物について述べられるものによってではないならば定義されることができない、 ということは明らかである。

それに対して、神について比喩的にではなく述べられる、 それら以外の名前については、一部の人々が主張したように、 もしもそれらの名前が、単に原因という観点からのみ、 神について述べられるのであったならば、 同じ推論が成り立ったであろう。 なぜなら、もしもそうであったならば、 以下のことが成り立ったであろうからである。 「神は善である」と述べられる場合、それは、 神は被造物の善性の原因である、 ということ以外のいかなることでもないということになり、 したがって、神について述べられた「善」というこの名前は、 その意味の中に被造物の善性を包含するということになっていたであろう。 したがって、「善」は、神についてよりも被造物についてのほうが、 より先の意味で述べられるということになっていたであろう。

しかし、この種の名前は、 原因という観点からのみではなく本質という観点からも神について述べられる、 ということはすでに示されている。 なぜなら、 「神は善である」あるいは「知恵のあるものである」と述べられる場合、 彼が知恵または善性の原因であるということが表示されているのみではなく、 それらが、 より卓越した様態で彼のうちに先在しているということも表示されているからである。 したがって、この点にもとづいて、 名前によって表示される事物に関しては、 被造物についてよりも神についてのほうが、 より先の意味で述べられる、と言わなければならない。 なぜなら、この種の完全性は、 神から被造物へ流れ出るのであるからである。 それに対して、名前の付与に関しては、 より先に我々が認識する被造物に対して、 それらの名前が我々によってより先の意味で付与される。 したがって、すでに述べられたように、それらの名前は、 被造物に適合する表示の様態も持つ。

[二八八三六]第一部第十三問題第六項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 この異論は、名前の付与に関しては妥当である。

[二八八三七]第一部第十三問題第六項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 すでに述べられたように、 神について比喩的に述べられる名前についてと、 それら以外の名前についてとでは、同じ推論は成り立たない。

[二八八三八]第一部第十三問題第六項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 もしもこの種の名前が、薬についての「健康なもの」と同様に、 神について、単に原因という観点からのみ述べられ、 本質という観点から述べられるのではなかったならば、 この異論は妥当であったであろう。

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