神学大全第一部第十三問題第五項
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第五項

[二八八二一]第一部第十三問題第五項第一異論

第五のものについては次のように進められる。 神についても被造物についても述べられるものは、 それらについて同義的に述べられるのであると思われる。

なぜなら、多が一に還元されるのと同様に、 いかなる異義的なものも同義的なものに還元されるからである。 たとえば、「犬」という名前は、 吠えるものと海のものについて異義的に述べられるとしても、 何かについては、すなわち吠えるものについては、 同義的に述べられるのでなければならない。 なぜなら、そうでなければ、 無限に進むことになるであろうからである。 ところで、 それらが名前と定義においてそれらの結果に一致するところの、 何らかの同義的な作用者が見出される。 たとえば、人間が人間を生むという場合がそうである。 それに対して、何らかの異義的な作用者も見出される。 たとえば、 異義的ではないならば太陽が熱いということにはならないにもかかわらず、 太陽が熱いものを生み出すという場合がそうである。 したがって、 すべての作用者がそれに還元されるところの第一の作用者は、 同義的な作用者であると思われる。 したがって、神についても被造物についても述べられるものは、 同義的に述語とされているのである。

[二八八二二]第一部第十三問題第五項第二異論

さらに、異義的なものにおいては、 いかなる類似性も認められない。 したがって、「我々は、 我々の像と似姿に即して人間を作ろう」という『創世記』第一章の言葉によれば、 被造物には神に対する何らかの類似性があるのであるから、 神についても被造物についても、 何かが同義的に述べられると思われる。

[二八八二三]第一部第十三問題第五項第三異論

さらに、『形而上学』第十巻において述べられているように、 尺度は、それによって測られるところのものと同類のものである。 ところで、同じ箇所で述べられているように、 神はすべての存在者の第一の尺度である。 したがって、神は被造物と同類のものである。 したがって、神についても被造物についても、 何かが同義的に述べられることができる。

[二八八二四]第一部第十三問題第五項第一反対異論

しかし反対に、同じ名前においてではあるが、 同じ概念においてではなく、何かについて述語とされるものは、 それが何であろうと、 それらの何かについて異義的に述語とされているのである。 ところで、 それにおいて被造物について述べられるところの概念においては、 いかなる名前も神には適合しない。 たとえば、知恵は、被造物においては性質であるが、 神においてはそうではない。 しかし、類は定義の部分であるから、異なる類は概念を変化させる。 そして他のものにおいても、同じ推論が成り立つ。 したがって、神についても被造物についても述べられるものは、 それが何であろうと、異義的に述べられているのである。

[二八八二五]第一部第十三問題第五項第二反対異論

さらに、神は、いかなる被造物の相互の隔たりよりも、 より大きく被造物から隔たっている。 ところで、何らかの被造物の間の距離を理由として、 いかなるものもそれらについて同義的に述語とされることができない、 ということが生じる。 たとえば、 いかなる類においても一致しないものについては、それが生じる。 したがって、神と被造物については、 なおさら何かが同義的に述語とされることはないのであり、 すべてのものは異義的に述語とされる。

[二八八二六]第一部第十三問題第五項主文

私は答えて言わなければならない。 神と被造物について何かが同義的に述語とされることは不可能である。 なぜなら、作用因の能力に相応しないいかなる結果も、 その作用因と同じ性質においてではなく、欠落的に、 その作用者との類似性を受容するからである。 だからこそ、結果のうちには断片的かつ多様に存在するものが、 原因のうちには、単純に、かつ同じ様態で存在するのである。 たとえば、太陽は、その単一の能力によって、 それの下にあるもののうちに多様かつ多彩な形相を生み出す。 すでに述べられたように、 被造的な諸事物のうちに断片的かつ多様に存在している、 諸事物のすべての完全性は、 神のうちに統一的に先在しているのであるが、 これも同じ方法によるものである。 したがって、 完全性に属している何らかの名前が被造物について述べられる場合、 その名前は、 定義の理念において他の完全性から区別されたものとして、 その完全性を表示しているのである。 たとえば、 「知恵のあるもの」という名前が人間について述べられる場合には、 我々は、人間の本質からも、人間の能力からも、人間の存在からも、 そしてその他のすべての同様のものからも区別された、 何らかの完全性を表示している。 それに対して、我々がこの名前を神について述べる場合には、 我々は、彼の本質、能力、 あるいは存在から区別された何かを表示することを意図しているのではない。 したがって、 「知恵のあるもの」という名前が人間について述べられる場合には、 その名前は、 表示されている事物を何らかの意味で制限して包含しているのであるが、 それに対して、その名前が神について述べられる場合には、 そうではなく、その名前は、表示されている事物を、 包含されないもののままに、 そして名前の表示を超えたもののままに残しておくのである。 したがって、「知恵のあるもの」という名前は、 神についてと人間についてとで、 同じ概念に即して述べられるのではない、 ということは明らかである。 そして、他の名前についても同じ推論が成り立つ。 したがって、いかなる名前も、 神と被造物について同義的に述語とされることはない。

しかし、一部の人々が述べたように、 純粋に異義的に述べられるわけでもない。 なぜなら、この見解に従うならば、被造物にもとづいては、 神についてのいかなることも、 認識されることも論証されることもできず、 常に異義性の誤謬に陥ることになるであろうからである。 そして、このことは、 神について多くのことを論証的に証明している哲学者たちに反しており、 『ローマの信徒への手紙』第一章で、「神の見えないことがらは、 作られたものを通じて理解され、 明らかに見られる」と述べている使徒にも反している。

したがって、 この種の名前が神についても被造物についても述べられるのは、 アナロギア、すなわち比例にもとづいてのことである、 と言わなければならない。 このようなことが名前において生じることには、 二通りの場合がある。 一つは、 多くのものが一つのものに対して比例を持つという場合である。 たとえば、薬についても尿についても、 「健康なもの」と述べられるが、これは、 両者が動物の健康に対して秩序と比例を持つ限りにおいてである。 つまり、後者は健康の徴候であり、前者は健康の原因である。 もう一つは、 一つのものが他のものに対して比例を持つという場合である。 たとえば、薬についても動物についても、 「健康なもの」と述べられるが、これは、 薬が動物のうちに存在する健康の原因である限りにおいてである。 そして、何らかの名前は、後者の意味において、 神と被造物についてアナロギア的に述べられるのであり、 純粋に異義的に述べられるのでもなく、 同義的に述べられるのでもない。 なぜなら、すでに述べられたように、我々は、 被造物にもとづかなければ神に命名することができないからである。 したがって、神と被造物について述べられるものは、 それが何であろうと、 諸事物のすべての完全性がそれのうちに卓越的に先在しているところの根源と原因としての神に対する被造物の何らかの秩序が存在している限りにおいて述べられるのである。

そして、共通性のこの様態は、 純粋な異義性と単純な同義性との間にある中間的なものである。 なぜなら、アナロギア的に述べられることがらにおいては、 一つの概念が、 同義的なことがらにおいて存在するのと同様に存在するわけではなく、 全面的に異なる概念が、 異義的なことがらにおいて存在するのと同様に存在するわけでもないからである。 そうではなく、そのような形で多様に述べられる名前は、 何らかの一つのものに対するさまざまな比例を表示しているのである。 たとえば、尿について述べられる「健康なもの」は、 動物の健康の徴候を表示しているのであり、それに対して、 薬について述べられる「健康なもの」は、 健康という同じものの原因を表示しているのである。

[二八八二七]第一部第十三問題第五項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 述語においては、 異義的なものは同義的なものに還元されなければならないが、 たとえそうであるとしても、作用においては、必然的に、 同義的ではない作用者は同義的な作用者に先行する。 なぜなら、太陽がすべての人間の生成の原因であるように、 同義的ではない作用者は種の全体の普遍的な原因であるからである。 それに対して、同義的な作用者は、 種の全体の普遍的な作用因ではなく(そうでないならば、 その作用者もその種のもとに含まれるのであるから、 それはそれ自身の原因となったであろう)、 種の分有において成立するこの個体についての個別的な原因である。 したがって、種の全体の普遍的な原因は、同義的な作用者ではない。 しかし、普遍的な原因は、個別的な原因に先行する。

ただし、この普遍的な作用者は、 たとえ同義的ではないとしても、 まったく異義的であるというわけではない。 なぜなら、もしもそうであったならば、 それは自身に類似したものを造らなかったであろうからである。 そうではなく、 それはアナロギア的な作用者と呼ばれることができる。 このことは、すべての同義的なものが、述語において、 同義的ではなくアナロギア的である一つの第一のもの、 すなわち存在者に還元されるのと同様のことである。

[二八八二八]第一部第十三問題第五項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 神に対する被造物の類似性は不完全である。 なぜなら、すでに述べられたように、被造物は、 類における同一のものを表現していないからである。

[二八八二九]第一部第十三問題第五項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 神は、測られるものに比例した尺度ではない。 したがって、神と被造物は、必ずしも、 一つの類のもとに含まれなければならないということにはならない。

[二八八三〇]第一部第十三問題第五項第四異論解答

反対異論に属している議論は、 この種の名前は神と被造物について同義的に述語とされるのではないと結論を下している。 しかし、 異義的に述語とされるという結論を下しているわけではない。

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