神学大全第一部第十三問題第二項
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第二項

[二八七九七]第一部第十三問題第二項第一異論

第二のものについては次のように進められる。 いかなる名前も、 神について実体的に述べられるものではないと思われる。

なぜなら、ダマスケヌスは、 「神について述べられる個々のことがらは、 彼が何であるかということを実体に即して表示するものではなく、 彼が何ではないかということ、あるいは一種の関係、 あるいは本性または働きに由来する何かを示すものでなければならない」と述べているからである。

[二八七九八]第一部第十三問題第二項第二異論

さらに、ディオニュシオスは『神名論』第一章で、 「神の命名が、根源神の優れた発出を、明らかに、 そして賞賛とともに区分するための、 すべての聖なる神学者たちの賛歌を、 あなたは見出すだろう」と述べている。 この意味は、聖なる博士たちが神的な賞賛のために採用する名前は、 神自身の発出にもとづいて区別される、ということである。 しかし、何らかの事物の発出を表示するものは、 その事物の本質に属するいかなるものも表示しない。 したがって、神について述べられる名前は、 彼について実体的に述べられるものではない。

[二八七九九]第一部第十三問題第二項第三異論

さらに、我々によって何かが名づけられるのは、 それが知性認識される限りにおいてである。 ところで、 神がこの世の生において我々によって知性認識されるのは、 彼の実体においてではない。 したがって、我々によって付与されるいかなる名前も、 神について、彼の実体において述べられるわけではない。

[二八八〇〇]第一部第十三問題第二項反対異論

しかし反対に、アウグスティヌスは『三位一体論』第六巻で、 「神においては、存在するということは、強いということであり、 知恵があるということであり、その他の何であれ、 それによって彼の実体が表示されるところの彼の単純性について、 あなたが述べるであろうことである」と述べている。 したがって、この種のすべての名前は、神的な実体を表示している。

[二八八〇一]第一部第十三問題第二項主文

私は答えて言わなければならない。 神について否定的に述べられる名前、 あるいは被造物に対する彼の関係を表示する名前については、 それらはいかなる意味においても彼の実体を表示するものではなく、 彼からの何かの排除、あるいは他のものに対する彼の関係、 というよりもむしろ彼に対する何かの関係を表示するものである、 ということは明らかである。 しかし、神について絶対的かつ肯定的に述べられる名前、 たとえば「善」や「知恵」や同様の他のものについては、 人々の見解はさまざまである。

すなわち、一部の人々は、それらの名前はすべて、 たとえそれらが神について肯定的に述べられるものであるとしても、 それにもかかわらず、 彼において何かを措定するためというよりもむしろ、 神から何かを排除するために考案されたものであると主張した。 したがって、彼らは、 「神は生きているものである」と我々が言うとき、 我々が表示しているのは、 神は無生物が存在しているのと同様の様態で存在しているのではないということであり、 その他の名前においても同様に理解されなければならない、 と主張している。 マイモニデスが主張したのはこの見解である。

それに対して、他の一部の人々は、 これらの名前は被造物に対する彼の関係を表示するために付与されたものであると主張している。 たとえば、「神は善である」と我々が言うとき、その意味は、 神は諸事物における善性の原因であるということである。 そして、その他の名前においても、その意味は同様である。

しかし、三つのことがらを理由として、 それらの見解はいずれも不適切であると思われる。

まず第一に、これらの説のいずれによっても、 なぜある種の名前が他の名前よりもより多く神について述べられるのか、 という理由が措定されることができないからである。 たとえば、彼は、善の原因であるのと同様に、物体の原因でもある。 したがって、もしも、「神は善である」と述べられるとき、 神は善の原因であるということを除いた、 いかなる別のことも表示されないのであるならば、同様に、 神は物体の原因であるから、 「神は物体である」と述べられることもできるであろう。 さらに、「彼は物体である」と述べられることによって、 第一質料のような、 単に可能態のみにある存在者ではないという排除がなされることにもなるであろう。

第二に、神について述べられるすべての名前は、 よりあとの意味で彼について述べられたものである、 ということが帰結することになるからである。 これは、薬について、 「健康なもの」がよりあとの意味で述べられるのが、 薬が単に、より先の意味で「健康なもの」と述べられる、 生物における健康の原因であるということのみを表示しているということによってである、 ということと同様のことである。

第三に、 この説は神について語る人々の意図に反しているからである。 なぜなら、彼らが神を「生きているもの」と呼ぶとき、彼らは、 彼が我々の生命の原因であるということや、 彼が生きていない物体とは異なるものであるということとは別のことを述べようと意図しているのであるからである。

したがって、これらの説とは別に、 次のように言わなければならない。 この種の名前は確かに神的な実体を表示しているのであり、 神について実体的に述語とされるものであるが、 彼の表現としては不足がある。 これは以下に述べることから明らかである。 すなわち、名前が神を表示するのは、 我々の知性が彼を認識する限りにおける意味においてである。 ところで、我々の知性は、 被造物にもとづいて神を認識するのであるから、彼を認識するのは、 被造物が彼を表現する限りにおける意味においてである。 ところで、神は、端的かつ普遍的に完全であるという意味において、 被造物のすべての完全性を自身のうちにあらかじめ所有している、 ということがすでに示されている。 したがって、被造物は、 それが何らかの完全性を持っている程度に応じて、彼を表現し、 彼に類似しているとしても、しかし、 同じ種または類に属する何かとして彼を表現しているのではなく、 それの結果はそれの形相に不足があるが、それにもかかわらず、 それの結果がそれの何らかの類似性を獲得しているところの卓越した根源として彼を表現している。 これは、 下位の物体の形相が太陽の力を表現しているのと同様のことである。 このことは、神的な完全性について論じられたときに、 すでに説明されたことである。 したがって、前述された名前は、 この意味において神的な実体を表示しているが、しかし、 不完全に表示しているのであり、それは、 被造物がそれを不完全に表現しているのと同様のことである。

したがって、「神は善である」と述べられる場合、その意味は、 「神は善性の原因である」ということでも、 「神は悪ではない」ということでもなく、その意味は、 「被造物のうちにある、我々が善性と呼ぶものは、 神のうちに先在しており、 しかもより高次の様態において先在している」ということである。 したがって、このことからは、 善であるということが神に適合するのは、 彼が善性を生起させる限りにおいてである、ということは帰結せず、 むしろ逆に、 「我々が存在するのは、彼が善である限りにおいてである」という、 アウグスティヌスの『キリスト教の教え』における、 かの言葉のとおり、 彼が善性を諸事物に拡散させるのは、彼が善であるからである、 ということが帰結する。

[二八八〇二]第一部第十三問題第二項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 これらの名前は神が何であるかということを表示するものではない、 とダマスケヌスが述べている理由は、 これらの名前のいずれによっても、 神が何であるかということは完全には表現されず、 被造物が彼を不完全に表現しているのと同様に、 それぞれの名前は彼を不完全に表示しているからである。

[二八八〇三]第一部第十三問題第二項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 名前の表示作用においては、時として、 表示のために名前がそれにもとづいて付与されたところのものが、 それを表示するために名前が付与されたところのものとは別のものである場合がある。 たとえば、「石」という名前は、 それが足を傷つけるものであるということにもとづいて付与されたものであるが、 しかし、この名前が付与されているのは、 「足を傷つけるもの」が表示するものを表示するためではなく、 ある種の物体を表示するためである。 そうでないならば、 足を傷つけるものはいかなるものも石であるということになったであろう。

したがって、 この意味において次のように言わなければならない。 この種の神的な名前は、確かに、 神性の発出にもとづいて付与されたものである。 なぜなら、たとえ不完全であるとしても、 完全性のさまざまな発出に応じて、 被造物は神を表現しているのであり、 それと同様に、我々の知性も、それぞれの発出に応じて、 神を認識し、彼に命名するのであるからである。

工事中。
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