神学大全第一部第十二問題第十三項
前のページ次のページ

第十三項

[二八七八〇]第一部第十二問題第十三項第一異論

第十三のものについては次のように進められる。 自然理性によって得られるものよりもより高次の神の認識が恩寵によって得られるということはないと思われる。

なぜなら、ディオニュシオスは『神秘神学』の中で、 この世の生において神によりよく結合されている者は、 いかなる意味においても知られていない者としての彼に結合されているのである、 と述べているからである。 彼はモーセについても、 その人は恩寵による認識において一種の卓越性を獲得したと述べている。 ところで、神について、 彼が何であるかを知らないままで彼に結合されることは、 自然理性によっても起こることである。 したがって、神は、自然理性によるよりも、 恩寵によってより十分に我々に認識されるというわけではない。

[二八七八一]第一部第十二問題第十三項第二異論

さらに、我々は、表象像を通じてではないならば、 自然理性によって神的なものの認識に到達するということはできず、 このことは恩寵による認識についても同様である。 なぜなら、ディオニュシオスは『天上位階論』第一章で、 「神的な光線が我々を照らすことは、 それが色彩豊かな聖なる覆いに包まれているのではないならば、 それ以外の方法では不可能である」と述べているからである。 したがって、我々は、自然理性によるよりも、 恩寵によってより十分に神を認識するというわけではない。

[二八七八二]第一部第十二問題第十三項第三異論

さらに、我々の知性は信仰の恩寵によって神に固着している。 ところで、信仰というのは認識であるとは思われない。 なぜなら、グレゴリウスは『教話』の中で、 見られないものは信仰の対象であり、認識の対象ではない、 と述べているからである。 したがって、神についての何らかのより卓越した認識が、 恩寵によって我々に付加されるというわけではない。

[二八七八三]第一部第十二問題第十三項反対異論

しかし反対に、使徒は『コリントの信徒への手紙一』第二章で、 「神は自身の霊によって私たちに啓示しました」と述べている。 これはすなわち、 この世界の支配者たちの誰一人として知らないことを啓示したということである。 『註解』が説明しているように、 「この世界の支配者たち」というのは、 すなわち哲学者たちのことである。

[二八七八四]第一部第十二問題第十三項主文

私は答えて言わなければならない。 神については、 自然理性によって我々に得られるものよりもより完全な認識が、 恩寵によって得られる。 このことは、以下に述べることから明らかである。

自然理性によって我々が得る認識は、二つのものを必要とする。 すなわち、可感的なものから受け取られる表象像、および、 それの力によってそれらの表象像から可知的な概念を我々が抽象化するところの本性的で可知的な光である。 そして、これらの両方に関して、 人間的な認識は恩寵の啓示によって援助される。

なぜなら、知性の本性的な光は、 無償の光の注入によって強化されるからである。 また、可感的なものから本性的に我々が受け取るものよりも、 神的なことがらをよりよく表現するために、時として、 神的な力によって人間の表象作用のうちに表象像が形成されることがあるからであり、 このようなことは預言者たちの直観において明らかである。 また、何らかの神的なものを表現するために、時として、 何らかの可感的な事物が、場合によっては声さえも、 神的な力によって形成されることがあるからである。 たとえば、洗礼においては、鳩の形において聖霊が見られ、 「これは私の愛する子である」という父の声が聞かれた。

[二八七八五]第一部第十二問題第十三項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 たとえ、この世の生においては恩寵の啓示によっても、神について、 彼は何であるかということを我々が認識しないとしても、 そしてこの意味において、 いわば「知られざる者」である彼に我々が結合されているとしても、 より多くの、 そしてより卓越した彼の結果が我々に明示される限りにおいて、 そして、たとえば神は三にして一であるというような、 自然理性がそれに到達しないところの何らかのことがらを、 神的な啓示によって我々が彼に帰属させる限りにおいて、 より十分に我々は彼を認識する。

[二八七八六]第一部第十二問題第十三項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 自然の秩序にもとづいて感覚から受け取られた表象像であるか、 神的な力によって表象作用のうちに形成された表象像であるかを問わず、 人間の中の可知的な光が強ければ強いほど、 より卓越した知性的な認識が、それらの表象像から得られる。 したがって、神的な光の注入によって、啓示を通じて、 より十分な認識が表象像から受け取られる。

[二八七八七]第一部第十二問題第十三項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 知性が何らかの認識可能なものに信仰によって限定される限りにおいて、 信仰は一種の認識である。 しかし、一つのものへのこの限定が生じるのは、 信じる者の直感によってではなく、 信じられている者の直観によってである。 したがって、信仰は、直観が欠けている限りにおいて、 知識のうちに存在する認識の性質における不足がある。 なぜなら、知識は、第一の諸原理の直観と知性認識によって、 知性を一つのものに限定するからである。

神学大全第一部第十二問題第十三項
前のページ次のページ