神学大全第一部第十二問題第十一項
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第十一項

[二八七六二]第一部第十二問題第十一項第一異論

第十一のものについては次のように進められる。 ある人は、 この世の生において神を本質によって見ることができると思われる。

なぜなら、ヤコブは『創世記』第三十二章で、 「私は顔と顔を合わせて神を見た」と語っているからである。 ところで、『コリントの信徒への手紙一』第十三章で、「私たちは、 今は鏡を通して謎において見ていますが、しかし、 そのときには顔と顔を合わせて見るでしょう」と述べられていることから明らかであるように、 顔と顔を合わせて見るということは、 本質によって見るということである。 したがって、神は、 この世の生において本質によって見られることができる。

[二八七六三]第一部第十二問題第十一項第二異論

さらに、『民数記』第十二章で、モーセについて主は、 「私は口から口へ彼に話す。 そして彼は、あらわに、 謎や形によってではなく神を見る」と語っている。 ところで、これは、神を本質によって見るということである。 したがって、ある人は、 この世の生の状態において神を本質によって見ることができる。

[二八七六四]第一部第十二問題第十一項第三異論

さらに、それにおいて我々が他のすべてのものを認識し、 またそれによって我々が他のものについて判断するところのものは、 それ自体として我々に知られている。 ところで、我々は、 今でさえもすべてのものを神において認識している。 なぜなら、 アウグスティヌスは『告白』第十二巻で次のように述べているからである。 「もしも、私たちの両方が、 あなたの言うことが真実であるということを見て、 そして私たちの両方が、 私の言うことが真実であるということを見るならば、 私たちはどこでそれを見ているのか、と私は問います。 私があなたにおいて見るのでもなく、 あなたが私において見るのでもなく、私たちはどちらも、 私たちの精神を超えて存在する不変の真理それ自体においてそれを見るのです」と。 また同じ人が、『真の宗教について』の中でも、 我々は神的な真理にもとづいてすべてのことについて判断すると述べている。 そして、『三位一体論』第十二巻でも彼は、 「これらの物体的なものについて、 非物体的で永続的な理念にもとづいて判断することは、 理性に属しており、これらの理念は、 もしもそれらが精神を超えたものではなかったならば、 決して不変ではなかったであろう」と述べている。 したがって、我々は、この世の生においても神自身を見る。

[二八七六五]第一部第十二問題第十一項第四異論

さらに、 アウグスティヌスの『創世記逐語解』第十二巻によれば、 それ自身の本質によって魂のうちに存在するところのものは、 知的直観によって見られる。 ところで、可知的な事物について知的直観が成り立つのは、 彼が同じ箇所で述べているように、 何らかの類似性を通じてではなく、 それらの事物の本質によってである。 したがって、 神は自身の本質によって我々の魂のうちに存在するのであるから、 彼は自身の本質によって我々に見られる。

[二八七六六]第一部第十二問題第十一項反対異論

しかし反対に、『出エジプト記』第三十三章では、「人間は、 私を見て、なおも生きることはないであろう」と語られている。 『註解』ではこれについて、 「この世において死すべき者として生きている間も、神は、 何らかの表象を通じて見られることができるが、しかし、 彼の本性の形象それ自体によって見られることはできない」と述べられている。

[二八七六七]第一部第十二問題第十一項主文

私は答えて言わなければならない。 純然たる人間によって神が本質によって見られることは、 その者がこの世の死すべき生から分離されない限り、可能ではない。

その理由は、すでに述べられたように、 認識の様態は認識する者の本性の様態に帰着するからである。 ところで、我々がこの世の生において生きている間は、 我々の魂は身体という質料のうちに存在を持つのであり、 したがって、質料のうちに形相を持つもの、 あるいはその種のものを通じて認識されることができるものを除いた何かを、 我々の魂が本性的に認識することはない。 しかし、 質料的な事物の本性を通じてでは神の本質は認識されることができない、 ということは明らかである。 なぜなら、 いかなる被造的な類似性による神の認識も彼の本質の直感ではない、 ということがすでに示されているからである。 したがって、この世の生において生きている人間の魂にとって、 神の本質を見ることは不可能である。

その証拠は、我々の魂は、 身体的なものからより大きく引き離されればされるほど、 可感的なものから引き離された可知的なものをより受け入れやすくなる、 ということである。 したがって、神の啓示や未来の予見は、夢の中や、 身体的な感覚から離脱した状態において、より強く感受される。 したがって、魂が、可知的なもののうちの最上位のものにまで、 すなわち神の本質にまで高められるということは、 それがこの世の死すべき生を使用している間は可能ではない。

[二八七六八]第一部第十二問題第十一項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 ディオニュシオスの『天上位階論』第四章によれば、 誰かが神を見たと聖書の中で述べられるのは、 何らかの類似性にもとづいて神的な何かを表現する、 可感的または表象的な何らかの形が形成されている限りにおける意味においてである。 したがって、 「私は顔と顔を合わせて神を見た」とヤコブが語っているということは、 神の本質それ自体に関係づけられるのではなく、 それにおいて神が表現されるところの形に関係づけられるべきである。 そして、語る神の位格が見られるということ自体は、 たとえそれが表象的な直観であるとしても、 のちに我々が預言の諸段階について語るときに明らかにされるであろうように、 預言の何らかの卓越性に属している。

あるいは、ヤコブがこのことを語っているのは、 通常の状態を超えた可知的な観想が持つ何らかの卓越性を明示するためである。

[二八七六九]第一部第十二問題第十一項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 神は、 物体的な事物において奇跡によって超自然的に何かに働きかけることがあるが、 それと同様に、ある人々の精神を、 この世の肉体のうちに生きたまま、 しかし肉体の感覚を使うことなく、通常の秩序を超えて超自然的に、 彼の本質の直観に至るまで高めたこともある。 このことは、ユダヤ人たちの師であったモーセについて、 そして異邦人たちの師であったパウロについて、 アウグスティヌスが『創世記逐語解』第十二巻および『神を見ることについて』において述べているとおりである。 そしてこのことについては、我々が脱魂について論じるときに、 より十分に考察されるであろう。

[二八七七〇]第一部第十二問題第十一項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 神においてすべてのものを見て、 そして彼によってすべてのことについて判断する、 と我々が言われるのは、我々が、 彼の光の分有によってすべてのものを認識し、 そして判断する限りにおいてである。 なぜなら、理性の自然的な光それ自体は、 神的な光の何らかの分有であるからである。 これは、可感的なすべてのものを太陽において、 すなわち太陽の光によって、認識し、そして判断する、 と我々が言うのと同様のことである。 アウグスティヌスが『ソリロクィア』第一巻で、「諸学の光景は、 いわばそれの太陽であるような何かによって、すなわち神によって、 照らされるのではないならば、 見られることができない」と述べているのは、 このような理由によるものである。 したがって、 感覚的に何かを見るために太陽の実体が見られることが必要ではないのと同様に、 知性的に何かを見るために神の本質が見られることも必要ではない。

[二八七七一]第一部第十二問題第十一項第四異論解答

第四のものについては次のように言わなければならない。 知的直観は、可知的なものが知性のうちに存在するのと同様に、 それ自身の本質によって魂のうちに存在するところのものにかかわる。 ところで、神は、 至福の者たちの魂のうちにはそのような方法で存在するのであるが、 しかし、我々の魂のうちには、そのような方法ではなく、 現前と本質と能力によって存在するのである。

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