神学大全第一部第十二問題第十項
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第十項

[二八七五六]第一部第十二問題第十項第一異論

第十のものについては次のように進められる。 神を本質によって見る者たちは、 自分たちが彼において見るすべてのものを同時に見るのではないと思われる。

なぜなら、哲学者によれば、多くのことを知ることはできるが、 知性認識することができるのはただ一つのもののみであるからである。 ところで、神において見られるものは知性認識される。 なぜなら、神が見られるのは知性によってであるからである。 したがって、 神を見る者たちによって神において多くのものが同時に見られるということはできない。

[二八七五七]第一部第十二問題第十項第二異論

さらに、アウグスティヌスは『創世記逐語解』第八巻で、 「神は霊的被造物を時間によって動かす」と述べており、これは、 知性活動と精神の変化によって動かすということである。 ところで、霊的被造物というのは天使のことであり、 それは神を見る者である。 したがって、神を見る者たちは、継起的に知性認識し、 継起的に精神を変化されられる。 なぜなら、時間は継起を含意するからである。

[二八七五八]第一部第十二問題第十項反対異論

しかし反対に、 アウグスティヌスは『三位一体論』の最終巻で次のように述べている。 「あるものから別のものへ行きつ戻りつする我々の変転する思惟はなくなるであろう。 我々は、 我々のすべての知識を一つの視界のうちに同時に見るであろう」

[二八七五九]第一部第十二問題第十項主文

私は答えて言わなければならない。 御言葉において見られるものは、 継起的にではなく同時に見られる。

このことを明確にするためには、 次のことを考察しなければならない。 我々が多くのものを同時に知性認識することができない理由は、 我々が多くのものを知性認識するのがさまざまな形象を通じてであるからである。 ところで、一つの知性が、さまざまな形象によって、 それらの形象を通じて知性認識するように同時に現実的に形相づけられる、 ということはできない。 このことは、 一つの物体がさまざまな形に同時に形作られることができないのと同様のことである。 したがって、 何らかの多くのものが一つの形象によって知性認識されることができる場合に、 それらのものが同時に知性認識される、ということが生じる。 それは、何らかの全体のさまざまな部分が、 個々の部分の固有の形象によって知性認識される場合には、 それらは同時ではなく継起的に知性認識されるが、 全体の一つの形象によってすべての部分が知性認識される場合には、 それらは同時に知性認識される、というのと同様のことである。 ところで、神において見られるものは、 個々のものがそれぞれの類似性を通じて見られるのではなく、 神の一つの本質によってそのすべてが見られるのである、 ということはすでに示されている。 したがって、それらは同時に見られるのであって、 継起的に見られるのではない。

[二八七六〇]第一部第十二問題第十項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 我々が一つの形象によって知性認識する限りにおいては、 我々が知性認識するのはただ一つのもののみである。 しかし、一つの形象によって知性認識された多くのものは、 同時に知性認識される。 たとえば、我々は、 人間の形象において動物と理性的であることを知性認識し、 家の形象において壁と屋根を知性認識する。

[二八七六一]第一部第十二問題第十項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 天使たちは、自身に賦与されているさまざまな形象を通じて、 それによって事物を認識するところの本性的な認識に関しては、 すべてのものを同時に認識するわけではなく、この意味においては、 知性認識に関して彼らが動かされるのは時間によってである。 しかし、神において事物を見る限りにおいては、 彼らはそれらを同時に見るのである。

神学大全第一部第十二問題第十項
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