神学大全第一部第十二問題第九項
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第九項

[二八七五〇]第一部第十二問題第九項第一異論

第九のものについては次のように進められる。 神において見られるものは、神の本質を見る者たちによって、 何らかの類似性を通じて見られるのであると思われる。

なぜなら、いかなる認識も、 認識されるものに対する認識する者の類似化によって成り立つからである。 すなわち、 現実態にある知性が現実態において知性認識されるものとなり、 現実態にある感覚が現実態において可感的なものとなるのは、 瞳が色の類似性によって形相づけられるように、 知性や感覚が対象の類似性によって形相づけられる限りにおいてである。 したがって、もしも、 神を本質によって見る知性は何らかの被造物を神において知性認識するのであるならば、 その知性は、 それらの被造物の類似性によって形相づけられているのでなければならない。

[二八七五一]第一部第十二問題第九項第二異論

さらに、我々は、以前に見たものを記憶の中に保持している。 ところで、 アウグスティヌスが『創世記逐語解』第十二巻で述べているように、 脱魂状態において神の本質を見たパウロは、 神の本質を見ることを終えたのちに、 その脱魂状態において見たものの多くを想起した。 だからこそ、パウロは、『コリントの信徒への手紙二』第十二章で、 「人間には語ることを許されていない秘密の言葉を彼は聞いたのです」と述べているのである。 したがって、 彼が想起したものの何らかの類似性が彼の知性の中に残存していたと言わなければならない。 また同じ理由によって、彼が神の本質を実際に見ていたときにも、 その本質において彼が見ていたものの何らかの類似性または形象を、 彼は持っていたのである。

[二八七五二]第一部第十二問題第九項反対異論

しかし反対に、鏡と、鏡の中に現れるものとは、 同一の形象を通じて見られる。 ところで、万物は、ある種の可知的な鏡としての神の中に見られる。 したがって、もしも神自身が、何らかの類似性を通じてではなく、 彼の本質によって見られるのであるならば、 彼において見られるものも、 何らかの類似性または形象を通じて見られるのではない。

[二八七五三]第一部第十二問題第九項主文

私は答えて言わなければならない。 神を本質によって見る者たちは、 自分たちが神の本質それ自体において見るものを、 何らかの形象を通じて見るのではなく、 自分たちの知性に結合された神の本質それ自体によって見るのである。

なぜなら、個々のものが認識されるのは、 認識する者のうちにそれの類似性が存在する限りにおいてであるからである。 ところで、このことは二通りの方法で生じる。 すなわち、 一つであり同一であるものに似ているものは何であろうと、 相互に似ているのであるから、認識の能力は、 二通りの方法で何らかの認識可能なものに類似化されることができるのである。 一つの方法は、それ自体としてであり、 認識の能力が認識可能なものの類似性によって直接に形相づけられる場合のものである。 この場合には、認識可能なものはそれ自体として認識される。 もう一つの方法は、 認識の能力が認識可能なものに似ている何かの形象によって形相づけられる限りにおけるものである。 この場合には、 事物はそれ自体において認識されると言われるのではなく、 それに似ているものにおいて認識されると言われる。 たとえば、ある人がその人自身において認識される場合と、 その人の肖像において認識される場合とでは、 それぞれの認識は別のものである。

したがって、事物を、 認識する者のうちに存在するそれらの事物の類似性を通じて認識することは、 それらの事物をそれら自体において認識すること、 すなわち固有の本性において認識することであるが、しかし、 それらの事物を、 それらの事物の類似性が神の中に先在する限りにおいて認識することは、 それらの事物を神において見ることである。 そしてこれらの二つの認識は異なるものである。 したがって、 神を本質によって見る者たちによって神自身において事物が認識される場合の認識においては、 それらの事物は何らかの別の類似性を通じて見られるのではなく、 知性に現前している神の本質のみによって見られるのであり、 神もまた、この本質によって見られるのである。

[二八七五四]第一部第十二問題第九項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 神を見る者の知性が神において見られる事物に類似化されるのは、 すべての事物の類似性がその中に先在している神の本質に、 その知性が結合される限りにおいてである。

[二八七五五]第一部第十二問題第九項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 最初に捉えられた形象から他の形象を形成することができる何らかの認識の能力が存在する。 たとえば、想像力は、 あらかじめ捉えられた山と黄金の形象から黄金の山という形象を形成するし、 知性も、 あらかじめ捉えられた類と種差の形象から種の概念を形成する。 同様に我々は、肖像の類似性から、 それがその人の肖像であるところの人の類似性を我々のうちに形成することができる。 パウロは、あるいは誰であろうと神を見る他の者は、 神の本質を見るということそれ自体から、 神の本質において見られる事物の類似性を自身のうちに形成することができる、 というのはこのような意味である。 この類似性が、パウロの中に、 彼が神の本質を見ることを終えたのちにも残存したのである。 しかし、 そのような方法で捉えられたこの種の形象を通じて事物が見られる場合における見るということは、 神において事物が見られる場合における見るということとは別のものである。

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