神学大全第一部第十二問題第八項
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第八項

[二八七四〇]第一部第十二問題第八項第一異論

第八のものについては次のように進められる。 神を本質によって見る者たちは神において万物を見ると思われる。

なぜなら、グレゴリウスは『対話』第四巻の中で、 「万物を見る者を見る者たちが見ない何かがあるだろうか」と述べているからである。 ところで、神は万物を見る者である。 したがって、神を見る者たちは万物を見る。

[二八七四一]第一部第十二問題第八項第二異論

同様に、鏡を見る者は誰であろうと、 鏡の中に反映しているものを見る。 ところで、造られる、 あるいは造られることができるすべてのものは、 あたかもある種の鏡の中に反映しているかのように、 神の中に反映している。 なぜなら、 彼はそれらのすべてのものを彼自身の中に認識するからである。 したがって、神を見る者は誰であろうと、存在するすべてのもの、 および生成することができるすべてのものを見る。

[二八七四二]第一部第十二問題第八項第三異論

さらに、『魂について』第三巻で述べられているように、 より大きなものを知性認識する者は、 より小さなものを知性認識することもできる。 ところで、神が造る、あるいは造ることができるすべてのものは、 彼の本質よりも小さい。 したがって、神を知性認識する者は誰であろうと、神が造る、 あるいは造ることができるすべてのものを知性認識することができる。

[二八七四三]第一部第十二問題第八項第四異論

さらに、理性的被造物は万物を知ることを本性的に欲求する。 したがって、 もしも神を見ることによってその者が万物を知るのではないならば、 その者の本性的な欲求は静まらず、 したがって神を見ることによってもその者は至福にはならないであろう。 これは不合理である。 したがって、神を見ることによってその者は万物を知る。

[二八七四四]第一部第十二問題第八項反対異論

しかし反対に、天使たちは神を本質によって見るが、 それにもかかわらず、彼らは万物を知っているわけではない。 なぜなら、 ディオニュシオスが『天上位階論』第七章で述べているように、 下位の天使たちは上位の天使たちによって無知から浄化されるからである。 また、彼らは未来の出来事や心の思惟を知らない。 なぜなら、これは神のみに属するものであるからである。 したがって、 神の本質を見る者は誰であろうと万物を見るというわけではない。

[二八七四五]第一部第十二問題第八項主文

私は答えて言わなければならない。 被造的知性は、神の本質を見ることによって、神が造る、 あるいは造ることができるすべてのものを彼の本質において見る、 というわけではない。 なぜなら、 何かが神において見られるのはそれらが彼において存在している限りにおいてである、 ということは明らかであるからである。 ところで、神以外のすべてのものが彼のうちに存在しているのは、 結果がそれらの原因のうちに潜勢的に存在しているのと同様のことである。 したがって、神以外のものが彼のうちに見られるのは、 結果がそれらの原因のうちに見られるのと同様のことである。 ところで、何らかの原因が見られるのがより完全であればあるほど、 より多くのその結果がその原因のうちに見られることができる、 ということは明らかである。 たとえば、高められた知性を持つ者は、 一つの論証的な原理が提示されると、ただちに、 多くの結論の認識をそこから受け取るが、このようなことは、 より弱い知性を持つ者には適合せず、そのような者には、 それらの結論が一つ一つ説明されなければならない。 したがって、原因を全体的に把握している知性は、 その原因において、その原因のすべての結果と、 その結果のすべての根拠を認識することができる。 ところが、すでに示されたように、いかなる被造的知性も、 神を全体的に把握することはできない。 したがって、いかなる被造的知性も、神を見ることによってでは、 神が造る、 あるいは造ることができるすべてのものを認識することはできない。 なぜなら、もしもそれができるのであれば、 彼の力を把握していることになるであろうからである。 そうではなく、何らかの知性は、 神を見るのがより完全であればあるほど、神が造る、 あるいは造ることができるものを、より多く認識するのである。

[二八七四六]第一部第十二問題第八項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 グレゴリウスが語っているのは、対象の、 すなわち神の充足性についてであり、その対象が、 それ自体として存在する限りにおいて、万物を充足的に包含し、 そして明示している、ということである。 しかし、神を見るいかなる者も万物を認識する、 ということは帰結しない。 なぜなら、 その者は彼を完全に把握しているわけではないからである。

[二八七四七]第一部第十二問題第八項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 鏡を見る者が鏡の中に万物を見るということは、 もしもその者がその者の視覚によって鏡を把握しているのではないならば、 必然的ではない。

[二八七四八]第一部第十二問題第八項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 神を見ることは彼以外の万物を見ることよりもより大きなことであるが、 たとえそうであるとしても、 万物が神において認識されるような方法で彼を見ることは、 万物ではなく、より少ないもの、 あるいはより多くのものが彼において認識されるような方法で彼を見ることよりも、 より大きなことである。 なぜなら、神において認識されるものの多さは、 彼を見る様態がより多く完全であるかより少なく完全であるかということの結果である、 ということはすでに示されたことであるからである。

[二八七四九]第一部第十二問題第八項第四異論解答

第四のものについては次のように言わなければならない。 理性的被造物の本性的な欲求は、 知性の完成に属するすべてのことがらを知ることに対するものである。 それらのことがらは、事物の種と類、そしてそれらの根拠であり、 それらは、 神の本質を見る者は誰であろうと神において見るであろうものである。 しかし、他の個別的なものや、 それらの個別的なものの思惟や行為を認識することは、 被造的知性の完成に属することではなく、 被造的知性の本性的な欲求もそれらのことには向かわず、 さらにまた、いまだ存在しないが、 神によって造られることができるものを認識することへも向かわない。 しかし、 もしもすべての存在と真理の源泉であり根源である神が見られるならば、 それのみで、知ることに対する本性的な欲求は、 それ以外のいかなるものも求められないほどにまで、 そしてその知性が至福となるほどにまで満たされるであろう。 アウグスティヌスが『告白』第五巻で次のように述べているのは、 このような理由によるものである。 「それらのすべてのもの(すなわち被造物)を知っていながらあなたを知らない人間は不幸である。 それに対して、あなたを知っている者は、 たとえそれらのものを知らないとしても至福である。 そして、あなたとそれらのものを知っている者は、 それらのものを理由としてさらに至福となるのではなく、 あなたのみを理由として至福である」。

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