神学大全第一部第十二問題第七項
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第七項

[二八七三二]第一部第十二問題第七項第一異論

第七のものについては次のように進められる。 神を本質によって見る者たちは彼を把握すると思われる。

なぜなら、使徒は『フィリピの信徒への手紙』第三章で、 「しかし私は、 何とかして把握しようとして追い求めているのです」と述べているからである。 しかも彼は、空しく追い求めたわけではない。 なぜなら、『コリントの信徒への手紙一』第九章で彼自身が、 「私は、 不確実なものに向かっているかのような走り方で走っているのではありません」と述べているからである。 したがって、彼は把握しているのであり、 「把握するために走りなさい」と述べて、 走ることに彼が招いている他の者たちも、 同じ理由で把握しているのである。

[二八七三三]第一部第十二問題第七項第二異論

さらに、アウグスティヌスは、 『神を見ることについてのパウリナに宛てた書簡』の中で、 「それに属するいかなるものも見る者から隠されていないという様態で、 その全体が見られているものは、 把握されているのである」と述べている。 ところで、神は単純であるから、神が本質によって見られるならば、 彼の全体が見られており、 彼に属するいかなるものも見る者から隠されていない。 したがって、本質によって彼を見るいかなる者によっても、 彼は把握されているのである。

[二八七三四]第一部第十二問題第七項第三異論

もしも、 「全体」が見られるのであって「全体的に」見られるのではないと言われるならば、 これに対しては次のように反論される。 「全体的に」というのは、見る者の様態を言うか、 見られる事物の様態を言うか、そのいずれかである。 ところで、もしも見られる事物の様態が意味されているならば、 神を本質によって見る者は、彼を全体的に見ている。 なぜなら、すでに述べられたように、 その者は彼をありのままに見ているからである。 同様に、もしも見る者の様態が意味されているとしても、 その者は彼を全体的に見ている。 なぜなら、その者の知性は、 能力の全体によって神の本質を見るであろうからである。 したがって、誰であろうと、神を本質によって見る者は、 彼を全体的に見るであろう。 したがって、その者は彼を把握するであろう。

[二八七三五]第一部第十二問題第七項反対異論

しかし反対に、『エレミア書』第三十二章では、「最も強く、 偉大で、力のある者、あなたの名前は万軍の主です。 思慮において偉大で、 思考において把握不可能です」と述べられている。 したがって、彼は把握されることができない。

[二八七三六]第一部第十二問題第七項主文

私は答えて言わなければならない。 「いかなる方法であろうと、 精神によって神に到達することは大いなる至福である」とアウグスティヌスが述べているように、 いかなる被造的知性にとっても、 神を把握するということは不可能である。

このことを明確にするためには、 次のことを知らなければならない。 何かが把握されるというのは、 それが完全に認識されるということである。 ところで、完全に認識されるというのは、 認識可能である限界に至るまで認識されるということである。 したがって、 もしも論証的な学知によって認識可能であることがらが、 何らかの蓋然的な根拠によって発想された見解として保持されているならば、 それは把握されているのではない。 たとえば、もしも、 三角形は二直角に等しい三つの角を持つということを、 ある者が論証によって知っているならば、 その者はそれを把握している。 それに対して、もしも、 賢者たちまたは多くの人々によってそのように言われているという理由で、 ある者がその見解を蓋然的に是認しているならば、 その者はそれを把握しているのではない。 なぜなら、 その命題がそれによって認識可能であるところの認識の完全な様態にまで、 その者は到達していないからである。

ところで、いかなる被造的知性も、 神の本質がそれによって認識可能であるところのそれの認識の完全な様態にまで到達することはできない。 これは、次のことから明らかである。 すなわち、個々のものは、 それが現実態における存在者である限りにおいて認識可能である。 したがって、神は、すでに示されたようにその存在は無限であり、 無限に認識可能である。 ところが、いかなる被造的知性も、 神を無限に認識することはできない。 なぜなら、被造的知性は、 注がれる栄光の光がより多いかより少ないかという程度に応じて、 より完全にあるいはより少なく完全に神の本質を認識するからである。 したがって、被造的な栄光の光は、 それがいかなる被造的知性に受容されたものであろうと、 無限ではあり得ないのであるから、 何らかの被造的知性が神を無限に認識するということは不可能である。 したがって、それが神を把握するということは不可能である。

[二八七三七]第一部第十二問題第七項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 「把握」は二通りの意味で語られる。

一つは、厳密でかつ本来の意味であり、 把握する者のうちに何かが包含される限りにおける意味である。 この意味では、神は、知性によっても他の何かによっても、 決して把握されない。 なぜなら、彼は無限であるので、 彼が無限に存在するということと同様に何らかの有限のものが彼を無限に捉える、 という意味では、 いかなる有限のものによっても、 彼は包含されることができないからである。 今、問われているのは、 このような意味での「把握」についてである。

もう一つの意味での「把握」は、より広義に受け取られ、 それは、 「把握」が「追及」に対立するものである限りにおける意味である。 たとえば、ある者に到達している人は、 その者をすでに保持している場合、 その者を「把握している」と言われる。 「私は彼を捉えました。もう離しません」という『雅歌』第三章の言葉によれば、 神が至福の者たちによって「把握されている」というのは、 このような意味である。 「把握」についての使徒の引用文は、 このような意味であると理解される。

そして、この意味での「把握」は、 魂の三つの賜物の一つである。 それは、直観が信仰に対応し、享受が愛に対応するのと同様に、 希望に対応する。 すなわち、我々の間では、見られるいかなるものも、 すでに保持されたり所有されたりしているわけではない。 なぜなら、遠く隔たったものや、 我々の能力のうちには存在しないものも、 しばしば見られるからである。 また、我々は、 我々が所有するいかなるものをも享受しているというわけではない。 その理由は、我々がそれらのものに喜びを感じないからであるか、 あるいは、それらのものが、 我々の欲求を満たしたり静めたりするような、 我々の欲求の究極的な目的ではないからである。 ところが、 これらの三つのものを至福の者たちは神において所有している。 なぜなら、彼らは彼を見ており、見ることによって、 現前するものとして彼を保持し、 その能力において常に彼を見ることを得て、彼を保持しつつ、 欲求を満たす究極的な目的として彼を享受するからである。

[二八七三八]第一部第十二問題第七項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 神は把握不可能であると言われるのは、 彼に属する見られない何かが存在しているというような理由によるものではなく、 彼は見られ得る限界にまで完全には見られないという理由によるものである。 このことは、 何らかの論証可能な命題が何らかの蓋然的な根拠によって認識される場合というのは、 その命題に属する何か、 すなわち主語や述語や繋辞が認識されていない場合のことではなく、 その命題の全体が、 認識され得る限界にまで完全には認識されていない場合のことである、 ということと同様のことである。 アウグスティヌスが「把握」を定義して、 「見ることによって全体が把握されるというのは、 それに属するいかなるものも見る者から隠されていないという様態で見られているということ、 あるいはそれの限界が見渡されることができるということである」と述べているのは、 このような理由によるものである。 なぜなら、何らかのものの限界が見渡されるのは、 その事物を認識する様態において限界にまで到達される場合であるからである。

[二八七三九]第一部第十二問題第七項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 「全体的に」は対象の様態を言う。 ただしそれは、 対象の様態の全体が認識のもとに到来するわけではないという意味ではなく、 対象の様態が認識者の様態ではないという意味である。 したがって、神を本質によって見る者は、彼は無限に実在し、 そして無限に認識可能である、 ということを彼のうちに見るのであるが、しかし、 この無限の様態は、その者が彼を無限に認識するという意味で、 その者に適合するのではない。 それは、ある者は、何らかの命題が論証可能であるということを、 たとえその者がその命題を論証的に認識しているのではないとしても、 蓋然的に知ることはできる、ということと同様のことである。

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