神学大全第一部第十二問題第六項
前のページ次のページ

第六項

[二八七二四]第一部第十二問題第六項第一異論

第六のものについては次のように進められる。 神の本質を見る者たちのうちで、 ある者は他の者よりもより完全にそれを見る、 ということはないと思われる。

なぜなら、『ヨハネの手紙一』第三章で、 「私たちは彼をありのままに見るでしょう」と述べられているからである。 ところで、彼は一つの様態で存在する。 したがって、彼は、 すべての者によって一つの様態で見られるであろう。 したがって、より完全に見られたり、 より少なく完全に見られたりすることはないであろう。

[二八七二五]第一部第十二問題第六項第二異論

さらに、アウグスティヌスは『八十三問題』の中で、 一つの事物をある者が他の者よりもより多く知性認識することはできないと述べている。 ところで、神を本質によって見るすべての者たちは、 神の本質を知性認識している。 なぜなら、すでに論じられたように、 神が見られるのは知性によってであって、 感覚によってではないからである。 したがって、神的な本質を見る者たちのうちで、 ある者は他の者よりもより明瞭に見る、ということはない。

[二八七二六]第一部第十二問題第六項第三異論

さらに、 あるものが他のものよりもより完全に見られるということは、 二つのことによって生じることができる。 可視的な対象の側からであるか、 あるいは見る者の見る能力の側からであるかのいずれかである。 ところで、対象の側から生じるというのは、より完全に、すなわち、 より完全な類似性にもとづいて、 対象が見るもののうちに受容されるということによって生じるということである。 このことは、現在の問題には適用されない。 なぜなら、神は、何らかの類似性によってではなく、 彼の本質によって、 彼の本質を見る者の知性に現前しているのであるからである。 したがって、 もしもある者が他の者よりもより完全に彼を見るのであるならば、 このことは知性的な能力の相違にもとづくものである、 ということにならざるを得ない。 したがって、 本性的に知性的な能力がより高い者ほどより明瞭に彼を見るであろうということが帰結する。 至福においては天使たちとの同等性が人間たちに約束されているのであるから、 この帰結は不合理である。

[二八七二七]第一部第十二問題第六項反対異論

しかし反対に、 「これは永遠の生命である」云々という『ヨハネによる福音書』第十七章の言葉によれば、 永遠の生命は神を見るということのうちに成り立つ。 したがって、 もしもすべての者が等しい程度で神の本質を見るのであるならば、 すべての者は永遠の生命において同等であるということになるであろう。 使徒は『コリントの信徒への手紙一』第十五章で、 これとは反対のことを述べている。 すなわち、「星と星との間には明るさに違いがあります」と。

[二八七二八]第一部第十二問題第六項主文

私は答えて言わなければならない。 神を本質によって見る者たちのうちで、 ある者は他の者よりもより完全に彼を見るであろう。 ただし、このことは、ある者の中に、 他の者の中にあるよりもより完全な何らかの神の類似性があるということによるものではない。 なぜなら、すでに示されたように、 その直観は何らかの類似性によって生じるのではないであろうからである。 そうではなく、このことは、ある者の知性が他の者の知性よりも、 神を見るためのより大きな力または能力を持つということによるものであろう。

ところで、神を見る能力が被造的知性に適合するのは、 その知性の本性にもとづいてではなく、 すでに述べられたことから明らかであるように、 知性をある種の神の形に構成する栄光の光によってである。 したがって、栄光の光をより多く分有する知性ほど、 より完全に神を見るであろう。 ところで、より多くの愛を持つ者ほど、 栄光の光をより多く分有するであろう。 なぜなら、より大きな愛があるところにはより大きな欲求があり、 そして欲求は何らかの意味で、欲求する者を、 欲求されるものの受容にふさわしい者でかつそれに対して準備された者にするからである。 したがって、より多くの愛を持つ者ほど、 より完全に神を見るであろうし、より至福になるであろう。

[二八七二九]第一部第十二問題第六項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 我々は彼をありのままに見るであろうと述べられるとき、 この「ままに」という副詞は、見るということの方法を、 見られる事物の側から限定しているのであり、その結果として、 その意味は、我々は彼を、 彼が存在するとおりに存在するのを見るであろう、 ということである。 なぜなら、我々が見るであろうものは彼の存在それ自体であり、 それが彼の本質であるからである。 しかし、その副詞は、 見るということの方法を見る者の側から限定しているのではない。 すなわちその意味は、 存在するということの完全な方法が神においてあるのと同様に、 見るということの完全な方法があるであろう、 ということではない。

[二八七三〇]第一部第十二問題第六項第二異論解答

そして、 これによって第二のものについての解答も明らかである。 すなわち、 一つの事物をある者が他の者よりもよりよく知性認識することはないと述べられる場合、 もしもそれが、 知性認識される事物の様態に関係づけられたことであるならば、 それは真理性を持つ。 なぜなら、事物が存在することを、 それが存在する方法とは別の方法で知性認識する者は誰であろうと、 それを真の意味で知性認識しているのではないからである。 しかし、もしもそれが、 知性認識するということの方法に関係づけられたことであるならば、 それは真理性を持たない。 なぜなら、 ある者の知性認識は他の者の知性認識よりもより完全であるからである。

[二八七三一]第一部第十二問題第六項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 見るということの相違は対象の側から生じるのではないであろう。 なぜなら、すべての者に呈示されるのは、同一の対象、 すなわち神の本質であろうからである。 また、 異なる類似性による対象のさまざまな分有から生じるのでもないであろう。 そうではなく、知性のさまざまな能力によって生じるのであろう。 ただしそれは、すでに述べられたように、本性的な能力ではなく、 栄光の能力である。

神学大全第一部第十二問題第六項
前のページ次のページ