神学大全第一部第十二問題第五項
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第五項

[二八七一六]第一部第十二問題第五項第一異論

第五のものについては次のように進められる。 被造的知性は神の本質を見るためにいかなる被造的な光も必要とはしないと思われる。

なぜなら、可感的な事物のうちで、 それ自体によって光を放っているものは、 見られるために他の光を必要とせず、 したがって可知的なものにおいても同様であるからである。 ところで、神は可知的な光である。 したがって、彼が見られるのは、 何らかの被造的な光によってではない。

[二八七一七]第一部第十二問題第五項第二異論

さらに、神が媒介によって見られる場合、 彼は自身の本質によって見られているのではない。 ところで、彼が何らかの被造的な光によって見られる場合、 彼は媒介によって見られている。 したがって、彼は彼自身の本質によって見られているのではない。

[二八七一八]第一部第十二問題第五項第三異論

さらに、創造されたものについては、 それが何らかの被造物にとって本性的なものであることを妨げるものは何もない。 したがって、 もしも何らかの被造的な光によって神の本質が見られるのであるならば、 その光は、 何らかの被造物にとって本性的なものであることができるであろう。 したがって、その被造物は、 神を見るためにいかなる他の光も必要とはしないであろう。 これは不可能である。 したがって、 いかなる被造物も神の本質を見るために付加的な光を必要とする、 ということは必然的ではない。

[二八七一九]第一部第十二問題第五項反対異論

しかし反対に、『詩編』においては、「あなたの光の中に、 私たちは光を見るであろう」と述べられている。

[二八七二〇]第一部第十二問題第五項主文

私は答えて言わなければならない。 自身の本性を超越する何かにまで高められるいかなるものも、 自身の本性を超える何らかの態勢に配置されなければならない。 たとえば、もしも空気が火の形相を受け取るべきであるならば、 それは、 この種類の形相に対応する何らかの態勢に配置されなければならない。 ところで、何らかの被造的知性が神を本質によって見る場合には、 神の本質それ自体が知性の可知的な形相となる。 したがって、それほどの崇高さにまで知性が高められるためには、 何らかの超自然的な態勢が知性に付加されなければならない。 ところで、すでに示されたように、 被造的知性の本性的な能力は神の本質を見る上で十分ではないのであるから、 神的な恩寵によって、 その知性に対して知性認識の能力を増強することが必要である。 そして、この知性認識の能力の増強を我々は「知性の照明」と呼ぶ。 これは、 可知的なものそれ自体が「光」あるいは「光源」と呼ばれることと同様のことである。 そしてこれは、『ヨハネの黙示録』第二十一章で、 「神の輝きがそれを照らすであろう」と述べられている光である。 「それ」というのはすなわち、 神を見る至福の者たちの共同体である。 そして彼らは、この光によって、神の形の者、 すなわち神に似た者にされる。 このことは、かの『ヨハネの手紙一』第三章で、「彼が現れるとき、 私たちは彼に似た者になっているでしょう。 そして私たちは彼をありのままに見るでしょう」 と述べられているとおりである。

[二八七二一]第一部第十二問題第五項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 被造的な光は神の本質を見るために必要であるが、これは、 神の本質がこの光によって可知的なものになるということではない。 神の本質は、それ自体によって可知的なものなのである。 そうではなく、能力が習態によって、 働くためのより強力なものとなるという方法によって、 知性が知性認識するための力となるためである。 外部的な視覚において物体的な光が必要とされるのは、 色によって動かされることができるように、 光が媒体を現実的に透明にする限りにおいてである、 ということもまた、これと同様のことである。

[二八七二二]第一部第十二問題第五項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 神の本質を見るためにこの光が必要とされるのは、 それにおいて神が見られるところの類似性のようなものとしてではなく、 神を見るまでに知性を強化する、 知性の一種の完全性のようなものとしてである。 したがって、この光は、 それにおいて神が見られるところの媒介ではなく、 それのもとに彼が見られるところの媒介である。 そして、この種の媒介は、神を直接的に見ることを排除しない。

[二八七二三]第一部第十二問題第五項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 火の形相に対応する態勢は、 火の形相を持つものにとってではないならば、 本性的であることができない。 したがって、栄光の光は、 被造物にとって本性的であることができない。 もしも被造物が神的な本性を持つならばそうではないが、 これはあり得ない。 なぜなら、すでに述べられたように、理性的被造物は、 この光によって神の形の者となるのであるからである。

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