神学大全第一部第十二問題第四項
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第四項

[二八七〇八]第一部第十二問題第四項第一異論

第四のものについては次のように進められる。 何らかの被造的知性が神的な本質を見ることができるのは、 自身の本性的なものによってであると思われる。

なぜなら、ディオニュシオスは『神名論』第四章で、天使は、 純粋で最も明瞭な鏡であり、「もしもそう言ってよいならば、 神の美しさの全体を受け取っている」と述べているからである。 ところで、個々のものは、 それの鏡像が見られている限りにおいて見られている。 したがって、 天使は自身の本性的なものによって自分自身を知性認識するのであるから、 彼が神的な本質を知性認識するのも、 自身の本性的なものによってであると思われる。

[二八七〇九]第一部第十二問題第四項第二異論

さらに、最高度に可視的であるものは、 我々の肉体的または知性的な視覚の欠陥を理由として、 我々にとってより少なく可視的なものとなる。 ところで、天使の知性は、いかなる欠陥も許容しない。 したがって、神は彼自身において最高度に可知的であるから、 天使にとって彼は最高度に可知的である。 したがって、もしも天使が、 自身の本性的なものによって他の可知的なものを知性認識することができるのであるならば、 神を知性認識することができるのはなおさらである。

[二八七一〇]第一部第十二問題第四項第三異論

さらに、身体の感覚は、 非物体的な実体を知性認識するまでに高められることはできない。 なぜなら、それは身体の感覚の本性を超えたことであるからである。 したがって、 もしも神を本質によって見るということがいかなる被造的知性の本性をも超えたことであるならば、 いかなる被造的知性も神の本質を見るまでに到達することはできないと思われるが、 すでに述べられたことから明らかであるように、これは誤りである。 したがって、神的な本質を見るということは、 被造的知性にとって本性的なことであると思われる。

[二八七一一]第一部第十二問題第四項反対異論

しかし反対に、『ローマの信徒への手紙』第六章で、 「神の恩寵は永遠の生命です」と述べられている。 ところで、 「彼らが唯一の真の神であるあなたを知っているということ、 これが永遠の生命である」云々という『ヨハネによる福音書』第十七章の言葉のとおり、 永遠の生命は神的な本質を見ることのうちに成り立つ。 したがって、 神の本質を見るということが被造的知性に適合するのは、 恩寵によってであって、本性によってではない。

[二八七一二]第一部第十二問題第四項主文

私は答えて言わなければならない。 いかなる被造的知性も、自身の本性的なものによってでは、 神の本質を見ることは不可能である。 なぜなら、認識が生起するのは、 認識する者の中に認識されるものが存在する限りにおいてであるからである。 ところで、認識されるものは、 認識する者の様態に応じて認識する者の中に存在する。 したがって、いかなる認識する者の認識も、 自身の本性の様態に応じて存在する。 したがって、 もしも何らかの認識される事物の存在の様態が認識する者の本性の様態を超えているならば、 その事物の認識はその認識する者の本性を超えているということにならざるを得ない。

ところで、事物の存在の様態は多様である。 すなわち、 それらの本性が「この個体的な質料」においてではないならば存在を持たないところの何かが存在し、 すべての物体的なものはこの種のものである。 それに対して、 それらの本性は何らかの質料においてではなくそれら自体によって存立するものであるが、 しかしそれらは自身の存在ではなく存在を持つものであるところの何かが存在し、 我々が天使と呼ぶ非物体的な実体はこの種のものである。 それらに対して、自存する自身の存在であるという、 神のみに固有の存在の様態が存在する。

したがって、 個体的な質料においてではないならば存在を持たないものを認識することは、 我々にとって親和的である。 なぜなら、我々がそれによって認識をするところの我々の魂は、 何らかの質料の形相であるからである。 ところで、我々の魂は、認識の二つの能力を持っている。 一つは、何らかの身体的な器官の現実態である。 この能力に親和的であるのは、 個体的な質料において存在する限りにおける事物を認識することである。 したがって、感覚は、個物以外のものは認識しない。 それに対して、我々の魂が持つもう一つの認識の能力は知性であり、 これはいかなる身体的な器官の現実態でもない。 したがって、 個体的な質料においでではないならば存在をまったく持たない本性を知性によって認識することは、 我々にとって親和的であるが、 しかしそれらの本性を認識することは、 それらの本性が個体的な質料において存在する限りにおいてではなく、 それらの本性が知性の考察によって個体的な質料から抽象化される限りにおいてである。 したがって、我々は、 知性によって普遍においてこの種の事物を認識することができるのであり、 これは感覚の能力を超えたことである。 それに対して、天使の知性にとっては、 質料において存在するのではない本性を認識することが親和的である。 この認識は、身体に統合されている現世の生の状態においては、 人間の魂が持つ知性の本性的な能力を超えたものである。

したがって、自存する存在それ自体を認識するということは、 神的な知性のみにとって親和的であり、 それはいかなる被造的知性の本性的な能力をも超えたことである、 ということにならざるを得ない。 なぜなら、いかなる被造物も、自身の存在ではなく、 分有された存在を持つものであるからである。 したがって、神が自身の恩寵によって、 被造的知性によって認識され得るものとして、 自身を被造的知性に結合しない限り、 被造的知性は神を本質によって見ることができない。

[二八七一三]第一部第十二問題第四項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 神を認識するその方法、すなわち、 天使自身のうちに反映している彼の類似性によって彼を認識するという方法は、 天使にとって親和的である。 しかし、すでに示されたように、 何らかの被造的な類似性によって神を認識するということは、 神の本質を認識することではない。 したがって、 天使は自身の本性的なものによって神の本質を認識することができる、 ということは帰結しない。

[二八七一四]第一部第十二問題第四項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 もしも「欠陥」が欠如として解釈されるならば、すなわち、 持つべきであるものを欠いているという意味に解釈されるならば、 天使の知性は欠陥を持たない。 それに対して、「欠陥」が否定として解釈されるならば、 いかなる被造物も神において見出される卓越性を持たないのであるから、 神と比較すれば、そこには欠陥が見出される。

[二八七一五]第一部第十二問題第四項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 視覚という感覚は、あらゆる意味において質料的なものであるから、 いかなる方法によっても、 何らかの非質料的なものにまで高められることはできない。 それに対して、我々または天使の知性は、 その本性によって何らかの方法で質料から高められているのであるから、 恩寵によって、自身の本性を超えて、 より高い何かにまで高められることができる。 その証拠は、いかなる方法によっても、感覚は、 具体性において認識するものを抽象性において認識することはできない、 ということである。 なぜなら、感覚は、「この本性」としてではないならば、 いかなる方法によっても、 本性を知覚することができないからである。 それに対して、我々の知性は、 具体性において認識するものを抽象性において考察することができる。 すなわち、 たとえそれが質料のうちに形相を持つ事物を認識するとしても、 それにもかかわらず、 それは複合されたものをそれぞれのものに分解し、 形相それ自体をそれ自体として考察する。 同様に、天使の知性は、 たとえ具体的な存在を何らかの本性において認識することがそれに親和的であるとしても、 それにもかかわらず、 そのものとそのものの存在とは別のものであるということを認識する限りにおいて、 知性によって存在それ自体を分離することができる。 したがって、被造的知性は、自身の本性によって、 ある種の分解という方法で、 抽象性において具体的な形相と具体的な存在を把握するように生まれながらにできているのであるから、 それは、 自存する分離された実体と自存する分離された存在を認識するまでに恩寵によって高められることができる。

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