神学大全第一部第十二問題第三項
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第三項

[二八七〇〇]第一部第十二問題第三項第一異論

第三のものについては次のように進められる。 神の本質は肉体的な眼によって見られることができると思われる。

なぜなら、『ヨブ記』第十九章で、 「私は私の肉において神を見るであろう」云々と述べられており、 また第四十二章でも、「私は耳の聴覚によってあなたを聞きました。 しかし今は、 私の目があなたを見ています」と述べられているからである。

[二八七〇一]第一部第十二問題第三項第二異論

さらに、 アウグスティヌスは『神の国』の最終巻の第二十九章で次のように述べている。 「そして彼らの」(すなわち栄光を受けた人々の)「眼の力は、 より強力なものとなるであろう。 もっとも、鋭く見ると評されているある種の蛇や鷲よりも、 彼らのほうがより鋭く見るというわけではない(なぜなら、 これらの動物が具備している識別力の鋭さがどれほどであろうと、 それらは物体以外のいかなるものも見ることができないからである)。 そうではなく、 彼らは非物体的なものを見ることになるのである」と。 ところで、非物体的なものを見ることができる者は誰でも、 神を見るまでに高められることができる。 したがって、栄光を受けた眼は、神を見ることができる。

[二八七〇二]第一部第十二問題第三項第三異論

さらに、 神は人間によって表象的な直観で見られることができる。 なぜなら、『イザヤ書』第六章で、 「私は主が玉座の上に座しているのを見た」云々と述べられているからである。 ところで、表象的な直観は感覚に起源を持つ。 なぜなら、「表象とは、 現実態における感覚によって生起させられた運動のことである」と『魂について』第三巻の中で述べられているとおりであるからである。 したがって、神は、感覚的な直観によって見られることができる。

[二八七〇三]第一部第十二問題第三項反対異論

しかし反対に、アウグスティヌスは、 『神を見ることについてのパウリナに宛てた書簡』の中で次のように述べている。 「いまだかつて、 この世の生においてありのままに神を見た者は誰もいませんし、 天使たちの生においても、 肉体的な直観によって識別される可視的なものとして彼を見たものは誰もいません」と。

[二八七〇四]第一部第十二問題第三項主文

私は答えて言わなければならない。 視覚によっても、他のいかなる感覚によっても、 感覚的な部分の能力によっても、神が見られることは不可能である。 なぜなら、のちに述べられるであろうように、 この種のいかなる能力も身体の器官の現実態であるからである。 ところで、現実態は、それの現実態であるところのものに比例する。 したがって、この種のいかなる能力も、 物体的なものを超えて自身を及ぼすことはできない。 ところで、すでに示されたように、神は非物体的である。 したがって、感覚によっても表象によっても、 彼は見られることができず、 それができるのは知性によってのみである。

[二八七〇五]第一部第十二問題第三項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 「私は私の肉において私の救い主である神を見るであろう」と述べられる場合、 それは、 その者が肉の眼によって神を見るであろうという意味であると理解されるのではなく、 復活ののちに肉において存在する者が神を見るであろうという意味であると理解される。 同様に、 「今は私の眼があなたを見ています」と述べられているのも、 精神の眼について語られたことであると理解される。 これは、『エフェソの信徒への手紙』第一章で使徒が、 「彼を知ることにおいて知恵の霊を彼があなたがたに与え、 あなたがたの心の眼が照らされますように」と述べているのと同様のことである。

[二八七〇六]第一部第十二問題第三項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 それらの言葉においてアウグスティヌスは、探究しつつ、 しかも条件のもとに語っているのである。 このことは、それら(すなわち栄光を受けた眼)は、 もしもかの非物体的な本性がそれらによって見られるならば、 はるかに異なった能力を持つものとなっているであろう、 と前置きされていることから明らかである。 しかし、そののちに、この点を論じて次のように述べている。 「次のことは大いに信じることができる。 そのとき我々は、到る所に現前し、 すべての物体的なものをも統治している神を、 最も明瞭な透明性によって見るように、 新しい天と新しい地に属する世界の物体を見るであろう。 それは、今は、神の見えないところは、 作られたものを理解することを通じて観想されるが、 そのようにではなく、彼らが生き、彼らが生命の活動を営むように、 我々が彼らの間で生きているところの人間たちを我々が見るや否や、 我々は彼らが生きているということを、 信じるのではなく見るのであるが、そのようにである」と。 このことから、 今の我々の眼が何者かの生命を見るのと同様の方法で、 栄光を受けた眼は神を見るであろう、 と彼が理解しているということは明らかである。

ところで、生命が肉体的な眼によって見られるのは、 それ自体によって可視的であるものとしてではなく、 付帯的な意味で可感的であるものとしてである。 すなわち、生命は、感覚によって認識されるのではなく、 感覚と結合した何らかの他の認識の能力によって、 ただちに認識されるのである。 ところで、物体が見られると、ただちに、 神の現前がそれらの物体から知性によって認識されるということは、 二つのことによって起こる。 すなわち、知性の洞察力によってであり、 そして更新された物体における神的な明るさの反映によってである。

[二八七〇七]第一部第十二問題第三項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 神の本質は、表象的な直観において見られるのではない。 そうではなく、表象において形成されるのは、 何らかの類似性という方法によって神を表現している何らかの形相である。 それは、 聖書において神的なことがらが可感的な事物によって比喩的に叙述されているのと同様のことである。

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