神学大全第一部第十二問題第二項
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第二項

[二八六九二]第一部第十二問題第二項第一異論

第二のものについては次のように進められる。 神の本質が被造的知性によって見られるのは、 何らかの類似性を通じてであると思われる。

なぜなら、『ヨハネの手紙一』第三章で、「彼が現れるとき、 私たちは彼に似た者となっており、 そして彼をありのままに見るだろう、 ということを私たちは知っています」と述べられているからである。

[二八六九三]第一部第十二問題第二項第二異論

さらに、アウグスティヌスは『三位一体論』第九巻で、 「我々が神を知るとき、 神の何らかの類似性が我々の中に生ずる」と述べている。

[二八六九四]第一部第十二問題第二項第三異論

さらに、 現実態における感覚が現実態における可感的なものであるのと同様に、 現実態における知性は現実態における可知的なものである。 しかし、このことは、 可感的な事物の類似性によって感覚が形相づけられ、 知性認識される事物の類似性によって知性が形相づけられる限りにおいてではないならば成り立たない。 したがって、 もしも被造的知性によって現実態において神が見られるのであるならば、 彼は何らかの類似性を通じて見られるのでなければならない。

[二八六九五]第一部第十二問題第二項反対異論

しかし反対に、アウグスティヌスは『三位一体論』第十五巻で、 使徒が「私たちは、今、鏡を通じて、 謎において見ています」と語るとき、 「彼が鏡や謎という名辞によって示していることは、 神を理解することに適合した何らかの類似性であると理解されることができる」と述べている。 しかし、神を本質によって見るということは、謎のような、 あるいは鏡のような直観ではなく、 それとは対立するものとして区別される。 したがって、神的な本質が見られるのは、 類似性を通じてではない。

[二八六九六]第一部第十二問題第二項主文

私は答えて言わなければならない。 見るということのためには、それが感覚的なものである場合も、 知性的なものである場合も、二つのものが必要とされる。 すなわち、見る能力と、見られる事物と視覚との結合である。 なぜなら、 見られる事物が何らかの方法で見る者のうちに存在するということによってでなければ、 見るということは現実的にはならないからである。 ところで、物体的な事物においては、 見られる事物が見る者のうちに存在することができるのは、 それの本質によってではなく、それの類似性によってのみである、 ということは明らかである。 たとえば、石の類似性が眼のうちに存在し、その類似性によって、 石を見るということが現実的になるのであって、 石の実体それ自体が眼のうちに存在するわけではない。 しかし、もしも、見る能力の根源であり、 かつ見られる事物でもある、一つの同一の事物が存在するならば、 見る者は、見る能力も、彼がそれによって見るところの形相も、 その事物から受け取らなければならないであろう。

ところで、神は知性的な能力の創作者であるということも、 彼は知性によって見られることができるということも、 明らかである。 そして、 被造物の知性的な能力それ自体は神の本質ではないのであるから、 それは、 第一の知性である彼の何らかの類似性であるということにならざるを得ない。 したがって、被造物の知性的な能力は、 第一の光から派生したという意味で、 何らかの可知的な光であると言われる。 このことは、光が本性的な能力として理解されるとしても、 恩寵または栄光という何らかの付加的な完全性として理解されるとしても同じことである。 したがって、神を見るためには、 知性がそれによって神を見る上で効力のある、 神の何らかの類似性が、見る能力の側に必要とされる。

しかし、 何らかの方法で見るものと結合されることが必要である見られる事物の側においては、 いかなる被造的な類似性を通じても、 神の本質は見られることができない。 なぜなら、まず第一に、 ディオニュシオスが『神名論』第一章で述べているように、 下位の秩序に属する事物との類似性を通じてでは、 いかなる方法でも上位のものは認識されることができないからである。 たとえば、物体の形象を通じてでは、 非物体的な事物の本質を認識することはできない。 したがって、いかなる被造的な形象を通じても、 神の本質が見られることができないのはなおさらである。 第二の理由は、すでに示されたように、 神の本質は彼の存在それ自体であり、 このことはいかなる被造的な形相にも適合することができないからである。 したがって、いかなる被造的な形相も、見るものにとって、 神の本質を表現する類似性であることはできない。 第三の理由は、神的な本質は、 被造的知性によって表示あるいは理解されることができるものは何であろうと、 それを自身のうちに卓絶した方法で包含する、 限界を持たない何かであるからである。 そしてこのようなものは、何らかの被造的な形象を通じてでは、 いかなる方法でも表現されることができない。 なぜなら、いかなる被造的な形相も、知恵の、あるいは能力の、 あるいは存在それ自体の、あるいは同様の他の何かの、 何らかの側面において限定されているからである。 したがって、神は類似性を通じて見られると述べることは、 神的な本質は見られないと述べることであり、これは誤りである。

したがって、次のように言わなければならない。 神の本質を見るためには、見る能力の側からは、 何らかの類似性が必要とされる。 それはすなわち、神を見るために知性を強化する栄光の光である。 『詩編』の中で、「あなたの光の中に、 我々は光を見るであろう」と述べられているのは、 これのことである。 しかし、 神的な本質それ自体を自身のうちにあるものとして表現する何らかの被造的な類似性を通じてでは、 神の本質は見られることができない。

[二八六九七]第一部第十二問題第二項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 この典拠が語っているのは、 栄光の光の分有によって存在する類似性についてである。

[二八六九八]第一部第十二問題第二項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 アウグスティヌスがここで語っているのは、 現世において得られる神の認識についてである。

[二八六九九]第一部第十二問題第二項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 神的な本質は存在それ自体である。 したがって、自身の存在ではない他の可知的な形相が、 それによって知性それ自体を形成し、 知性それ自体を現実態にする何らかの存在において知性に結合されるのと同様に、 神的な本質も、現実態において知性認識されたものとして、 被造的知性に結合され、 それ自身によって知性を現実態にするのである。

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