神学大全第一部第十二問題第一項
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第一項

[二八六八二]第一部第十二問題第一項第一異論

第一のものについては次のように進められる。 いかなる被造的知性も、 神を彼の本質によって見ることはできないと思われる。

なぜなら、 「いまだかつて神を見た者はいない」と『ヨハネによる福音書』第一章で述べられていることについて、 クリュソストモスは『ヨハネ伝註解』において、 それを説明して次のように述べているからである。 「神であるそのものを、預言者たちのみではなく、 天使たちも大天使たちも見なかった。 創造され得る本性を持つものが、 どのようにして創造され得ないものを見ることができるのであろうか」と。 ディオニュシオスもまた、 『神名論』第一章において神について語る中で、「彼については、 感覚も、想像も、見解も、推論も、 知識も存在しない」と述べている。

[二八六八三]第一部第十二問題第一項第二異論

さらに、無限であるいかなるものも、 そのようなものである限りにおいて、知られざるものである。 ところで、すでに示されたように、神は無限である。 したがって、彼は、彼自身としては知られざる者である。

[二八六八四]第一部第十二問題第一項第三異論

さらに、被造的知性は、 実在するもの以外のものの認識を持たない。 なぜなら、 知性の把握において到来する第一のものは存在者であるからである。 ところが、神は実在する者ではなく、 実在するものを超えた者である。 これはディオニュシオスが述べているとおりである。 したがって、彼は、知性認識され得る者ではなく、 いかなる知性認識をも超えた者である。

[二八六八五]第一部第十二問題第一項第四異論

さらに、認識されるものは認識するものの完成であるから、 認識するものは、 認識されるものに対して何らかの比例を持たなければならない。 ところで、被造的なものの知性は、 神に対するいかなる比例も持たない。 なぜなら、それらは無限に隔たっているからである。 したがって、被造的知性は神の本質を見ることができない。

[二八六八六]第一部第十二問題第一項反対異論

しかし反対に、『ヨハネの手紙一』第三章では、 「私たちは彼をありのままに見るでしょう」と述べられている。

[二八六八七]第一部第十二問題第一項主文

私は答えて言わなければならない。 個々のものは、 それが現実態に存在する限りにおいて認識され得るのであるから、 いかなる可能態の混合物も持たない純粋な現実態である神は、 彼自身において存在する限りにおいて、最高度に認識され得る。

しかし、それ自体において最高度に認識され得るものは、 知性を超えた知性認識され得るものの過剰を理由として、 ある種の知性にとっては認識され得ない。 これは、最高度に可視的である太陽が、光の過剰を理由として、 蝙蝠には見られることができないのと同様のことである。 そこで、このことに着目して、一部の人々は、 いかなる被造的知性も神の本質を見ることはできないと主張した。

しかし、このように言われることは不合理である。 なぜなら、 人間の究極的な至福は人間の最高の働きのうちに成り立ち、 それは知性の働きなのであるから、 もしも被造的知性は神の本質を決して見ることができないのであるならば、 人間は決して至福を獲得することがないか、 あるいは人間の至福は神以外のもののうちに成り立つことになるであろうからである。 これは信仰に反している。 なぜなら、理性的被造物にとって彼は存在の根源であるから、 理性的被造物の究極的な完成は彼のうちに存在し、個々のものは、 それが自身の根源に到達している限りにおいて完全であるからである。

同様に、その説は理性にも反している。 なぜなら、人間には、 結果を見たときにその原因を認識しようとする本性的な欲求が内在し、 人々のうちに驚嘆が湧き起こるのはこれによってであるからである。 したがって、 もしも理性的被造物の知性が事物の第一原因に到達することができないのであるならば、 本性的な欲求は空しいままに留まるであろう。

したがって、至福の者たちが神の本質を見ることは、 端的に容認されるべきである。

[二八六八八]第一部第十二問題第一項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 これらの典拠はいずれも、 把握という直観について語っているのである。 だからこそ、ディオニュシオスは、 引用された言葉の直前に前置きして、「すべての者にとって、 彼は全般的には把握され得ない者であり、 彼については感覚も存在せず」云々と述べているのである。 クリュソストモスもまた、 前述された言葉の少しあとで次のように続けている。 「ここで彼が述べているのは、 父が子について持つそれと同じ程度の観照と把握としての、 父についての最も確実な直観である」と。

[二八六八九]第一部第十二問題第一項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 形相によって完成させられていない質料という側面から理解される無限は、 それ自体としては知られざるものである。 なぜなら、いかなる認識も形相によるものであるからである。 それに対して、 質料によって限定されていない形相という側面から理解される無限は、 それ自体としては最高度に知られるものである。 ところで、すでに述べられたことから明らかであるように、 神が無限であるというのはこの意味においてであって、 第一の意味においてではない。

[二八六九〇]第一部第十二問題第一項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 神が実在しないものであると言われるのは、 彼はいかなる意味においても実在しないという意味においてではなく、 彼が彼自身の存在である限りにおいて、 彼がいかなる実在するものをも超えているという意味においてである。 したがって、このことから帰結することは、 彼はいかなる意味においても認識されることができないということではなく、 彼はいかなる認識をも超越しているということ、すなわち、 彼は把握されることができないということである。

[二八六九一]第一部第十二問題第一項第四異論解答

第四のものについては次のように言わなければならない。 「比例」は二通りの意味で語られる。 一つの意味は、ある量が他の量に対して持つ一定の関係である。 この意味において、二倍や三倍や等しいというのは、 比例の種である。 別の意味としては、 あるものが他のものに対して持つ任意の関係が「比例」と呼ばれる。 そしてこの意味において、被造物が神に対して持つ関係が、 結果が原因に対して持つ関係であり、 可能態が現実態に対して持つ関係である限りにおいて、 そこに比例が存在することができる。 そしてこの限りにおいて、被造的知性は、 神を認識することに対して比例的であることができる。

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