神学大全第一部第十一問題第三項
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第三項

[二八六六七]第一部第十一問題第三項第一異論

第三のものについては次のように進められる。 神は一ではないと思われる。

なぜなら、『コリントの信徒への手紙一』第八章で、 「多くの神々と多くの主が実際に存在するとしても」 と述べられているからである。

[二八六六八]第一部第十一問題第三項第二異論

さらに、数の根源である一は、 神については述語となることができない。 なぜなら、いかなる量も、 神については述語とはならないからである。 同様に、存在者と置換される一も、神については述語とはならない。 なぜなら、それは欠如を含意しているが、 いかなる欠如も不完全性であり、 それは神には適合しないからである。 したがって、神は一であると言ってはならない。

[二八六六九]第一部第十一問題第三項反対異論

しかし反対に、『申命記』第六章では、「聞け、イスラエルよ。 あなたの神である主は一である」と語られている。

[二八六七〇]第一部第十一問題第三項主文

私は答えて言わなければならない。 神が一であるということは、三つのことによって論証される。

まず第一に、彼の単純性によってである。 なぜなら、何らかの個物が「このあるもの」である根拠は、 いかなる方法によっても、 多くのものに共通であり得るものではない、 ということは明らかであるからである。 たとえば、ソクラテスが人間である根拠は、 多くのものに共通であることができるが、 彼が「この人間」である根拠は、彼一人のみを除いて、 共通であることができない。 したがって、もしも、 ソクラテスがそれによって「この人間」であるところのものによって、 彼が人間であるならば、 複数のソクラテスが存在することができないのと同様に、 複数の人間が存在することもできないであろう。 ところが、神にはこのことが適合する。 なぜなら、すでに示されたように、 神自身が彼の本性であるからである。 したがって、彼が神である根拠と同じ根拠によって、 彼は「この神」でもある。 したがって、複数の神々が存在するということは不可能である。

第二に、彼の完全性の無限性によって論証される。 なぜなら、 神は自身のうちに存在の完全性の全体を包含するということがすでに示されているからである。 ところで、もしも複数の神々が存在するならば、 彼らは互いに異なっていなければならない。 したがって、ある神には適合するが、 他の神には適合しない何かがあるはずである。 もしもそれが欠如であるならば、 その神は端的な意味で完全であるということにはならないであろうし、 もしもそれが完全性であるならば、 他の神にはそれが欠けているであろう。 したがって、複数の神々が存在することは不可能である。 古代の哲学者たちが、 あたかも真理それ自体に強制されたかのように、 無限の根源を措定するに際してただ一つのみの根源を措定したのも、 このような理由によるものである。

第三に、世界の単一性によって論証される。 なぜなら、存在するすべてのものは、 あるものがあるものに仕えるという方法で相互に秩序づけられている、 ということが見出されるからである。 ところで、異なっているものは、 それらが一つの何かによって秩序づけられていないならば、 一つの秩序のもとに一致することはないであろう。 なぜなら、一はそれ自体によって一の原因であるが、多は、 付帯的な意味ではないならば、すなわち、 何らかの意味でそれらが一である限りにおいてではないならば、 一の原因ではないのであるから、多は、 多によってよりも一によってのほうが、 よりよく一つの秩序に導かれるからである。 したがって、第一であるものは最も完全であり、 それは付帯的な意味ではなくそれ自体によってであるから、 万物を一つの秩序に導く第一のものは、 ただ一つでなければならない。 そしてこれが神である。

[二八六七一]第一部第十一問題第三項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 多くの神々が語られるのは、惑星やその他の星々は神である、 あるいは世界の個々の部分さえも神であると考えて、 多くの神々を崇拝した人々の誤謬にもとづくものである。 だからこそ、 「しかし我々にとって神は一であり」云々と彼はそのあとに続けているのである。

[二八六七二]第一部第十一問題第三項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 数の根源である限りにおける一は、神については述語とはならず、 それが述語となるのは、 質料のうちに存在を持つものについてのみである。 なぜなら、数の根源である一は数学的なものの類に属しているが、 数学的なものは、質料のうちに存在を持ってはいるものの、 概念的には質料から抽象化されたものであるからである。 それに対して、存在者と置換される一は、 存在に関して質料に依存しない、何らかの形而上学的なものである。 そして、神においてはいかなる欠如も存在しないとしても、 それにもかかわらず、我々の把握の方法に関しては、 欠如と除去という方法によってでなければ、 彼は我々には認識されない。 したがって、 何らかの欠如として述べられたことが神について述語となること、 たとえば「彼は非物体的である」とか「彼は無限である」とかと語られることを妨げるものは何もない。 神について、「彼は一である」と言われることも同様である。

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