神学大全第一部第十一問題第一項
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第一項

[二八六四九]第一部第十一問題第一項第一異論

第一のものについては次のように進められる。 一は存在者の上に何かを付加すると思われる。

なぜなら、限定された何らかの類に属するいかなるものも、 すべての類を包含する存在者に対する付加によってその状態を得ているからである。 ところで、一は、限定された類に属している。 なぜなら、それは数の根源であり、数は量の一種であるからである。 したがって、一は存在者の上に何かを付加する。

[二八六五〇]第一部第十一問題第一項第二異論

さらに、何らかの共通するものを分割するものは、 その共通するものに対する付加によってその状態を得ている。 ところで、存在者は一と多によって分割される。 したがって、一は存在者の上に何かを付加する。

[二八六五一]第一部第十一問題第一項第三異論

さらに、もしも一が存在者の上に何も付加しないならば、 「一」と述べることと「存在者」と述べることは同じであるということになる。 ところで、「存在者である存在者」と述べることは無益である。 したがって、 「一つの存在者」と述べることは無益であるということになるが、 これは偽である。 したがって、一は存在者の上に何かを付加する。

[二八六五二]第一部第十一問題第一項反対異論

しかし反対に、ディオニュシオスは『神名論』の最後の章で、 「実在するもののうちで、 一を分有しないものは何もない」と述べている。 もしも一が存在者の上にそれを制限するものを付加するのであるならば、 それは成り立たないであろう。 したがって、一は、 存在者に対する付加によってその状態を得ているのではない。

[二八六五三]第一部第十一問題第一項主文

私は答えて言わなければならない。 一は存在者の上に何らかの事物を付加するのではなく、 単に分割の否定を付加するにすぎない。 なぜなら、「一」は、 「不可分な存在者」以外のいかなるものも表示しないからである。 そして、一が存在者に置換されるということも、 このことから明らかである。 なぜなら、いかなる存在者も、 単純なものであるか複合されたものであるかのいずれかであるからである。 ところで、単純であるものは、現実的にも可能的にも不可分である。 それに対して、複合されたものは、 それの諸部分が分割されている間は存在を持たず、存在を持つのは、 その複合されたものを諸部分が構成し、複合したのちである。 したがって、いかなる事物の存在も不可分性のうちに成り立つ、 ということは明らかである。 個々のものが、 自身の存在を保持するのと同様に自身の単一性を保持するのも、 このような理由によるものである。

[二八六五四]第一部第十一問題第一項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 一部の人々は、存在者に置換される一と、 数の根源である一とは同じものであると考えたが、彼らは、 対立する説に区分される。

すなわち、ピタゴラスとプラトンは、存在者に置換される一は、 存在者の上に何らかの事物を付加するのではなく、 不可分である限りにおける存在者の実体を表示する、 ということに着目し、 数の根源である一についてもそのとおりであると考えた。 そして、数というのは単一性が複合されたものであるから、 数はすべての事物の実体であると彼らは信じた。

これとは反対に、アヴィセンナは、 数の根源である一は存在者の実体の上に何らかの事物を付加する(そうでなければ、 単一性から複合された数は量の一種ではないということになる)と考察し、 存在者に置換される一も、 白が人間の上に何かを付加するのと同様に、 存在者の実体の上に何らかの事物を付加すると信じた。 しかし、 いかなる事物もそれ自身の実体によって一であるのであるから、 これは明らかに偽である。 なぜなら、もしも、 いかなる事物もそれとは別の何かによって一であるのならば、 その別のものも一であるから、もしも、 その別のものもそれとは別の何かによって一であるのならば、 この過程は無限に後退することになるであろうからである。 したがって、第一の段階で踏み止まらなければならない。

したがって、次のように言わなければならない。 存在者に置換される一が存在者の上に何らかの事物を付加するということはない。 しかし、数の根源である一は、量という類に属するのであるから、 存在者の上に何かを付加する。

[二八六五五]第一部第十一問題第一項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 ある意味では分割されているものが、 別の意味では不可分であるということには、いかなる妨げもない。 たとえば、数によって分割されるものも、 種に関しては不可分である。 したがって、何かが、ある意味では一であるが、 別の意味では多である、ということは妥当である。

しかし、もしもそれが端的な意味において不可分であるならば、 これには、 たとえば、基体においては一であるが、 付帯性に関しては多であるもののように、 事物の本質の外にあるものに関しては分割されているとしても、 事物の本質に属しているものに関しては不可分であるという理由の場合もあれば、 たとえば、全体としては一であるが、 部分に関しては多であるもののように、現実的には不可分であるが、 可能的には分割されているという理由の場合もあるが、 この種のものは、端的な意味においては一であるが、 限られた意味においては多であろう。

それとは逆に、もしも何かが、 限られた意味においては不可分であるが、 端的な意味においては分割されているならば、これには、 本質に関しては分割されているが、概念に関しては、 あるいは根源または原因に関しては不可分であるという理由の場合があるが、 この種のものは、端的な意味においては多であるが、 限られた意味においては一であろう。 数においては多であるが、種においては一である、 あるいは根源においては一であるものは、その例である。

ところで、存在者は一と多によって分割されるが、これは、 端的な意味における一と限られた意味における多によって分割されるという意味である。 なぜなら、多数性それ自体は、 もしもそれが何らかの方法で一にもとに含まれるのではないならば、 存在者のもとにも含まれないであろうからである。 すなわち、ディオニュシオスは、 『神名論』の最後の章で次のように述べている。 「一を分有しない多数性は存在しない。 部分においては多であるものも、全体としては一である。 付帯性においては多であるものも、基体としては一である。 数においては多であるものも、種としては一である。 種においては多であるものも、類としては一である。 発出においては多であるものも、根源としては一である」

[二八六五六]第一部第十一問題第一項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 「一つの存在者」と述べられることが無益ではない理由は、 概念的には一は存在者の上に何かを付加するからである。

神学大全第一部第十一問題第一項
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