神学大全第一部第十問題第六項
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第六項

[二八六三八]第一部第十問題第六項第一異論

第六のものについては次のように進められる。 存在する永劫は一つのみではないと思われる。

なぜなら、外典の『エズラ記』の中で、 「諸永劫の尊厳と権能は、主よ、 あなたのもとにあります」と述べられているからである。

[二八六三九]第一部第十問題第六項第二異論

さらに、異なる類には異なる尺度が存在する。 ところで、永劫であるものの一部は物体的なものの類のうちにあり、 すなわち天体がそれである。 それに対して、別の一部は霊的な実体であり、 すなわち天使がそれである。 したがって、存在する永劫は一つのみではない。

[二八六四〇]第一部第十問題第六項第三異論

さらに、「永劫」は持続の名称であるから、 一つの永劫を持つものは一つの持続を持つ。 ところで、 すべての永劫であるものについて一つの持続が存在するわけではない。 なぜなら、 あるものは別のものよりものちに存在し始めるからであり、 このことは人間の霊魂において最も明らかである。 したがって、存在する永劫は一つのみではない。

[二八六四一]第一部第十問題第六項第四異論

さらに、 相互に依存していないものが持続の一つの尺度を持つとは思われない。 なぜなら、 すべての時間的なものについて一つの時間が存在すると思われるのは、 何らかの意味ですべての運動の原因は第一運動であり、 これが何よりもまず時間によって測られる、 という理由によるものだからである。 ところで、永劫であるものは相互に依存していない。 なぜなら、 一人の天使が他の天使の原因になっているわけではないからである。 したがって、存在する永劫は一つのみではない。

[二八六四二]第一部第十問題第六項反対異論

しかし反対に、永劫は時間よりも単純であり、 時間よりも永遠性に近い。 ところで、存在する時間は一つのみである。 したがって、永劫が一つであることはなおさらである。

[二八六四三]第一部第十問題第六項主文

私は答えて言わなければならない。 この問題をめぐっては二通りの見解がある。 一部の人々は存在する永劫は一つのみであると述べているのに対して、 別の人々は多数であると述べている。 これらの見解のどちらがより真実に近いかということを考察するためには、 時間の単一性の原因から考察しなければならない。 なぜなら、我々は、 物体的なものを通じて霊的なものの認識に到達するからである。

ところで、 すべての時間的なものについて一つの時間が存在すると一部の人々が述べているのは、 すべての数えられるものについて一つの数が存在するという理由によるものである。 なぜなら、哲学者によれば、時間は数であるからである。 しかし、この見解は十分ではない。 なぜなら、時間は、 数えられるものの外にある抽象化されたものとしての数ではなく、 数えられるものの中に実在するものとしての数であるからである。 そうでないならば、数えられるものは連続的ではないであろう。 なぜなら、十ウルナの布が連続性を持つのは、 数によってではなく数えられるものによってであるからである。 ところが、数えられるものの中に実在する数は、 すべてのものについて同じではなく、 異なるものについては異なっているのである。

そこで、他の人々は、時間の単一性の原因を、 あらゆる持続の根源である永遠性の単一性に帰している。 この見解によれば、すべての持続は、 もしもそれらの根源について考察されるならば一つであるが、 それに対して、 もしも第一根源の流入から持続を受容するものの多様性について考察されるならば多数である。 さらに別の人々は、 時間の単一性の原因を第一質料の側面に帰している。 第一質料は運動の第一の基体であり、 運動はその尺度が時間である。 しかし、これらの原因の措定は、 どちらも十分なものであるとは思われない。 なぜなら、根源または基体において、 とりわけ遠く隔たったそれにおいて一つであるものは、 端的な意味において一つであるのではなく、 限られた意味において一つであるからである。

したがって、時間の単一性の根拠は第一運動の単一性である。 第一運動は最も単純であるから、 『形而上学』第十巻の中で述べられているように、 他のすべての運動はそれによって測られる。 したがって、この運動に対して、時間は、 測られるものに対する尺度という関係にあるのみではなく、 基体に対する付帯性という関係にもあり、この関係にもとづいて、 時間はこの運動から単一性を受容する。 それに対して、他の運動に対しては、時間は、 測られるものに対する尺度という関係にあるのみである。 したがって、 それらの運動の多数性によって時間が多数化されることはない。 なぜなら、 分離された一つの尺度によって多数のものが測られることは可能だからである。

以上のことを踏まえた上で、 霊的な実体については二通りの見解があったということを知らなければならない。 すなわち、霊的な実体は、 オリゲネスが述べたようにそれらのすべてが、 あるいはまた別の人々が主張したようにそれらの多くが、 ある種の均等性において神から発出した、と一部の人々は述べた。 それに対して、他の人々は、すべての霊的な実体は、 ある種の段階と序列にしたがって神から発出したと述べた。 ディオニュシオスはそのように考えていたと思われる。 彼は『天上位階論』第十章で、霊的な実体の間には、第一のもの、 中間のもの、そして最後のものが存在し、 天使たちの同一の階級の中でさえもそうであると述べている。

ところで、第一の見解に従うならば、 多数の均等な第一の永劫であるものが存在する限りにおいて、 多数の永劫が存在すると述べることは必然である。 それに対して、第二の見解に従うならば、 存在する永劫は一つのみであると述べなければならない。 なぜなら、『形而上学』第十巻の中で述べられているように、 個々のものは自身の類のうちで最も単純なものによって測られるのであるから、 より先であればあるほどより単純である、 すべての永劫であるものの存在は、 第一の永劫であるものの存在によって測られるということにならざるを得ないからである。 そして、のちに示されるであろうように、 第二の見解のほうがより真実に近いのであるから、 存在する永劫が一つのみであることを、 我々は現在のところ容認する。

[二八六四四]第一部第十問題第六項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 「永劫」は時として、時代、 すなわち何らかの事物の持続の周期という意味に解釈される。 したがって、「多数の永劫」と語られるのは、 多数の時代という意味である。

[二八六四五]第一部第十問題第六項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 天体と霊的なものとが、 たとえそれらの本性の類においては異なっているとしても、 変転不可能な存在を持つということにおいては、 それらは一致している。 したがって、それらは永劫によって測られる。

[二八六四六]第一部第十問題第六項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 すべての時間的なものが同時に始まるわけではないが、 それにもかかわらず、 時間によって測られる第一のものを理由として、 それらのすべてについて一つの時間が存在する。 それと同じように、すべての永劫であるものも、 たとえそれらのすべてが同時に始まるわけではないとしても、 第一の永劫であるものを理由として、一つの永劫を持つ。

[二八六四七]第一部第十問題第六項第四異論解答

第四のものについては次のように言わなければならない。 いくつかの何かが何らかの一つのものによって測られるということのために、 その一つのものがそれらのすべてのものの原因であるということは、 必要とはされない。 必要とされるのは、 その一つのものが他のものよりも単純であるということである。

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