神学大全第一部第十問題第五項
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第五項

[二八六二八]第一部第十問題第五項第一異論

第五のものについては次のように進められる。 永劫は時間とは別のものではないと思われる。

なぜなら、アウグスティヌスは『創世記逐語解』第八巻で、 「神は時間によって霊的な被造物を動かす」 と述べているからである。 ところで、永劫は、霊的な実体の尺度であると言われる。 したがって、時間は永劫とは異なるものではない。

[二八六二九]第一部第十問題第五項第二異論

さらに、すでに述べられたように、 時間の性質には、 「より先に」と「よりあとに」を持つということが属しており、 それに対して、永遠性の性質には、 その全体が同時に存在するということが属している。 ところで、永劫は永遠性ではない。 なぜなら、『シラ書』第一章で、 永遠の知恵は永劫よりも前に存在すると述べられているからである。 したがって、永劫は、その全体が同時に存在するのではなく、 「より先に」と「よりあとに」を持つ。 したがって、それは時間である。

[二八六三〇]第一部第十問題第五項第三異論

さらに、 もしも永劫においては「より先に」と「よりあとに」が存在しないのであるならば、 永劫であるものにおいては「存在する」と「存在した」と「存在するであろう」との間に相違がないということが帰結する。 したがって、永劫であるものは、 「存在しなかった」ということが不可能であるから、 それが「存在しないであろう」ということも不可能であるということが帰結する。 これは偽である。 なぜなら、神は、それらを無へ変化させることができるからである。

[二八六三一]第一部第十問題第五項第四異論

さらに、 永劫であるものの持続は今後という方向では無限であるから、 もしも永劫が、その全体が同時に存在するものであるならば、 何らかの被造物は現実的に無限であるということが帰結するが、 これは不可能である。 したがって、永劫は時間とは異なるものではない。

[二八六三二]第一部第十問題第五項反対異論

しかし反対に、ボエティウスは、 「あなたは時間が永劫から離れることを命ずる」と述べている。

[二八六三三]第一部第十問題第五項主文

私は答えて言わなければならない。 永劫は、時間と永遠性の間に存在する中間のものとして、 時間とも永遠性とも異なっている。

ところで、ある人々は、永遠性は始まりと終わりを欠いており、 永劫は始まりは持つが終わりは持たず、 それに対して時間は始まりと終わりを持つと述べることによって、 これらのものの相違を措定している。 しかし、すでに述べられたように、この相違は付帯的なものである。 なぜなら、たとえある人々が主張するように、 永劫であるものがこれまでに常に存在し、 そしてこれからも常に存在するであろうとしても、あるいは、 神にとっては可能なことであるが、 たとえ永劫であるものがいつの日にか消滅するであろうとしても、 永劫は、 依然として永遠性からも時間からも区別されるであろうからである。

それに対して、別の人々は、 これらの三つのものの間の相違を次のことによって措定している。 すなわち、永遠性は「より先に」と「よりあとに」を持たず、 それに対して時間は更新と老化を伴って「より先に」と「よりあとに」を持ち、 永劫は更新と老化を伴わずに「より先に」と「よりあとに」を持つ。 しかし、この説は矛盾を含んでいる。 この矛盾は、 もしも更新と老化が尺度それ自体に関連づけられるならば、 まったく明らかなものとして現れる。 なぜなら、 持続の「より先に」と「よりあとに」が同時には存在することができない以上、 もしも永劫が「より先に」と「よりあとに」を持つならば、 永劫のより先の部分が遠ざかるとともに、 よりあとの部分が新たに到来するということは当然であり、 したがって、時間の中に更新が存在するのと同様に、 永劫それ自体の中にも更新が存在することになるであろうからである。 それに対して、測られるものに更新と老化が関連づけられる場合も、 やはり不合理なことが帰結する。 なぜなら、時間的な事物が時間によって老化するのは、 それが変転可能な存在を持つからであり、また、 『自然学』第四巻から明らかであるように、 測られるものの変転可能性によって、 尺度における「より先に」と「よりあとに」が生じるからである。 したがって、 もしも永劫であるものが老化可能でも更新可能でもないならば、 その理由は、それの存在が変転不可能であるからであろう。

したがって、次のように言わなければならない。 永遠性は恒存する存在の尺度であるから、 何かが存在の恒存性から離れるにしたがって、 それは永遠性からも遠ざかる。 ところで、あるものは、それらの存在が変転の基体であるか、 あるいはそれらの存在が変転のうちに成り立つという方法で、 存在の恒存性から遠ざかる。 そして、この種のものは時間によって測られる。 いかなる運動もそれであり、 すべての可滅的なものの存在もそれである。 それに対して、あるものは、 存在の恒存性から遠ざかる程度がそれよりも少ない。 なぜなら、それらの存在は、変転のうちに成り立つのでもなく、 変転の基体でもないからである。 しかしそれらは、現実的または可能的に、付加された変転を持つ。 このようなことは、天体において明らかである。 天体の実体的な存在は変転不可能であるが、しかしそれらは、 変転不可能な存在とともに、場所的な変転可能性をも持つ。 同様に、このようなことは天使についても明らかである。 彼らは、変転不可能な存在を持つとともに、 彼らの本性に属する限りにおいて、 選択に関する変転可能性をも持ち、また、知性認識、感情、 そして独自の意味での場所に関して、変転可能性を持つ。 したがって、この種のものは、 永遠性と時間の間の中間のものである永劫によって測られる。 それに対して、永遠性が測る存在は、可変的ではなく、 可変性に付加されることもない。 したがって、時間は「より先に」と「よりあとに」を持ち、 それに対して永劫は、 それ自身においては「より先に」と「よりあとに」を持たないが、 それらは永劫に結合されることができ、それに対して永遠性は、 「より先に」も「よりあとに」も持たず、 それらと共存することもない。

[二八六三四]第一部第十問題第五項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 霊的な被造物は、 その中に継起が存在する感情と知性認識に関しては、 時間によって測られる。 だからこそ、アウグスティヌスも同じ箇所で、 時間によって動かされるということは感情によって動かされるということであると述べているのである。 それに対して、彼らの本性的な存在に関しては、 彼らは永劫によって測られる。 しかし、栄光の洞察に関しては、彼らは永遠性を分有している。

[二八六三五]第一部第十問題第五項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 永劫は、その全体が同時に存在する。 しかし、それは永遠性ではない。 なぜなら、 それは「より先に」と「よりあとに」と共存するからである。

[二八六三六]第一部第十問題第五項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 天使の存在それ自体の中には、 それをそれ自体において考察するならば、 過去と未来との相違は存在せず、存在するのは、 付加された変化に関する相違のみである。 それにもかかわらず、天使が存在する、存在した、 あるいは存在するであろうと我々は語るが、 これは我々の知性の把握にもとづく相違である。 我々の知性は、時間のさまざまな部分についての比較によって、 天使の存在を把握するのである。 そして、天使が存在する、あるいは存在したと語る場合、 我々の知性は、 それと対立することが神の能力に服従しない何かを前提としている。 それに対して、天使が存在するであろうと語る場合、我々の知性は、 その何かをいまだ前提とはしていない。 したがって、 天使の存在と非存在は神的な能力のもとにあるから、 無条件的に考察するならば、神は、 天使の存在が存在しなくなるようにすることができる。 しかし、存在している間に存在していないようにすること、 あるいは、 存在したのちに存在しなかったことにすることはできない。

[二八六三七]第一部第十問題第五項第四異論解答

第四のものについては次のように言わなければならない。 永劫の持続が無限であるのは、 それが時間によって限定されないからである。 しかし、何らかの他のものによって限定されないという意味で、 何らかの無限の被造物が存在することは、不合理なことではない。

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