神学大全第一部第十問題第四項
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第四項

[二八六二〇]第一部第十問題第四項第一異論

第四のものについては次のように進められる。 永遠性は時間とは別のものではないと思われる。

なぜなら、持続の二つの尺度が同時に存在するということは、 一方が他方の部分である場合を除いては不可能だからである。 たとえば、二つの一日は同時には存在せず、 二つの一時間も同時には存在しない。 しかし、一日と一時間は同時に存在する。 なぜなら、一時間は一日の部分だからである。 ところで、永遠性と時間は、 いずれも持続の何らかの尺度を含意しており、 それらは同時に存在する。 したがって、永遠性は時間を超越し、それを包含するのであるから、 永遠性は時間の部分ではなく、そうであるならば、 時間は永遠性の部分であり、 永遠性とは別のものではないと思われる。

[二八六二一]第一部第十問題第四項第二異論

さらに、哲学者が『自然学』第四巻の中で述べているとおり、 時間の「今」は、 時間の全体にわたって同一のものとして留まる。 ところで、 時間の経過の全体にわたって不可分割的に同一のものであり続けるということが、 永遠性の性質を構成していると思われる。 したがって、永遠性は時間の「今」である。 ところで、時間の「今」は、実体的に時間とは別のものではない。 したがって、永遠性は、実体的に時間とは別のものではない。

[二八六二二]第一部第十問題第四項第三異論

さらに、『自然学』第四巻の中で述べられているように、 第一運動の尺度はあらゆる運動の尺度であるが、それと同様に、 第一存在の尺度はあらゆる存在の尺度であると思われる。 ところで、永遠性は、第一存在すなわち神的な存在の尺度である。 したがって、永遠性はあらゆる存在の尺度である。 ところで、可滅的な事物の存在は時間によって測られる。 したがって、時間は永遠性であるか、あるいは永遠性の何かである。

[二八六二三]第一部第十問題第四項反対異論

しかし反対に、永遠性はその全体が同時に存在するが、 それに対して時間においては、 「より先に」と「よりあとに」が存在する。 したがって、時間と永遠性とは同じものではない。

[二八六二四]第一部第十問題第四項主文

私は答えて言わなければならない。 時間と永遠性とが同じものではないということは、明らかである。 ところで、一部の人々はこの相違の理由を、 永遠性は始まりと終わりを欠いているが、 それに対して時間は始まりと終わりを持つ、ということに帰した。 しかしこれは、付帯性による相違であって、 それ自体による相違ではない。 なぜなら、 天体の運動は永続的であると主張する人々の説にもとづいて、 時間は常に存在したし、 そして常に存在するであろうと仮定したとしても、 永遠性と時間との間には依然として相違が残るからである。 すなわち、ボエティウスが『哲学の慰め』の中で述べているように、 永遠性はその全体が同時に存在するが、 これは時間には適合しないのである。 なぜなら、永遠性は恒存する存在の尺度であるが、それに対して、 時間は運動の尺度だからである。

しかし、もしも前述の相違が、尺度に関するものではなく、 測られるものに関するものとみなされるならば、 それは何らかの妥当性を持つ。 なぜなら、『自然学』第四巻の中で述べられているように、 時間によって測られるのは、 時間において始まりと終わりを持つもののみだからである。 したがって、もしも天体の運動が常に持続するならば、 時間はその運動を、その持続の全体にわたっては測らないであろう。 なぜなら、無限は測り得るものではないからである。 そうではなく、時間は、 時間において始まりと終わりを持つ任意の周期を測るであろう。

ところで、前述の相違は、 もしも終わりと始まりが可能態において解釈されるならば、 それらの尺度という側面から、別の妥当性を持つこともできる。 なぜなら、たとえ時間が常に持続するとしても、 時間の何らかの部分を取ることによって、 時間において始まりと終わりを指定することが可能だからである。 たとえば、我々は一日や一年の始まりと終わりについて語るが、 そのようなことは、永遠性においては妥当ではない。

しかし、このような相違は、それ自体による第一義的な相違、 すなわち、「永遠性はその全体が同時に存在するが、 それに対して時間はそうではない」 という相違に付随するものである。

[二八六二五]第一部第十問題第四項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 もしも時間と永遠性が一つの類の尺度であるならば、 この立論は妥当であろうが、 時間と永遠性のそれぞれを自身の尺度とするものがあるということから、 これが偽であるということは明らかである。

[二八六二六]第一部第十問題第四項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 時間の「今」は、 基体においては時間の全体にわたって同一であるが、 しかし性質においては異なっている。 すなわち、時間が運動に対応するのと同様に、 時間の「今」は可動的なものに対応するのであるが、 可動的なものは、 基体においては時間の経過の全体にわたって同一であるものの、 ここにあり、かしこにある限りにおいて、 性質においては異なっている。 そして、このような交替が運動なのである。 同様に、「今」の流れも、 それが性質において交替する限りにおいて、 まさしく時間なのである。 それに対して、永遠性は、 基体においても性質においても同一のものとして留まる。 したがって、永遠性は、時間の「今」と同じものではない。

[二八六二七]第一部第十問題第四項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 永遠性が存在それ自体に固有の尺度であるのと同様に、 時間は運動に固有の尺度である。 したがって、何らかの存在が、存在の恒存性から遠ざかり、 変転に服従するにしたがって、それは永遠性から遠ざかり、 時間に服従するようになる。 したがって、可滅的な事物の存在は変転可能であるから、 それは永遠性によってではなく時間によって測られる。 なぜなら、時間は、現実に変転しているもののみではなく、 変転可能なものをも測るからである。 したがって、時間は、運動を測るのみではなく、 本来は動くようにできていながら動いていないものに属している、 静止をも測る。

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