神学大全第一部第十問題第三項
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第三項

[二八六一二]第一部第十問題第三項第一異論

第三のものについては次のように進められる。 永遠であるということは神のみに固有のことではないと思われる。

なぜなら、『ダニエル書』第十二章で、 「多くの人々を正義に導く者たちは、 星々のように不断の永遠に到るであろう」 と述べられているからである。 ところで、もしも神のみが永遠であるならば、 多数の永遠性は存在しないであろう。 したがって、神のみが永遠であるというわけではない。

[二八六一三]第一部第十問題第三項第二異論

さらに、『マタイによる福音書』第二十五章では、 「呪われた者どもよ、永遠の火に入れ」と述べられている。 したがって、神のみが永遠であるというわけではない。

[二八六一四]第一部第十問題第三項第三異論

さらに、いかなる必然的なものも永遠である。 ところで、必然的なものは数多く存在する。 たとえば、 論証のすべての原理やすべての論証的な命題がそれである。 したがって、神のみが永遠であるというわけではない。

[二八六一五]第一部第十問題第三項反対異論

しかし反対に、ヒエロニムスは、マルセラに宛てた書簡の中で、 「神のみが始まりを持たないものである」と述べている。 ところで、始まりを持つものは何であろうと永遠ではない。 したがって、神のみが永遠である。

[二八六一六]第一部第十問題第三項主文

私は答えて言わなければならない。 永遠性は、真に、そして固有の意味において、 神のみの中に存在する。 なぜなら、すでに述べられたことから明らかなように、 永遠性は不変性に伴うものだからである。 ところで、すでに示されたように、 あらゆる意味において不変であるものは神のみである。 しかし、何かが彼から不変性を受け取るならば、その限りにおいて、 それらの何かは彼の永遠性を分有する。 したがって、あるものは、 存在することを決してやめない限りにおける不変性を神から受け取っており、 『コヘレトの言葉』第一章で、大地について、 「永遠にわたって留まる」と述べられているのは、この意味である。 さらにまた、あるものは、可滅的であるにもかかわらず、 持続の永続性を理由として「永遠である」と聖書の中で述べられている。 たとえば、『詩編』の中では「永遠の山々」と述べられており、 『申命記』第三十三章でも「永遠の丘の賜物」について述べられている。 さらにあるものは、存在に関して変転不可能性を持つ限りにおいて、 あるいはさらに、 たとえば天使たちや、御言葉を享受する至福の者たちのように、 働きに関して変転不可能性を持つ限りにおいて、 より豊かに永遠性を分有している。 なぜなら、 アウグスティヌスが『三位一体論』第十五巻で述べているように、 御言葉のその洞察に関する限り、 聖人たちのうちには変転する思惟が存在しないからである。 「彼らが知っているということ、 これが永遠の生命である」云々という『ヨハネによる福音書』第十七章の言葉のとおり、 神を見る者たちは永遠の生命を持つと述べられているのは、 このような理由によるものである。

[二八六一七]第一部第十問題第三項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 多数の永遠性が語られるのは、 神の観想というまさにそのことによって永遠性を分有する多数の者たちが存在するということにもとづくものである。

[二八六一八]第一部第十問題第三項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 地獄の火が永遠であると言われるのは、 その無際限性を理由とするものにほかならない。 しかし、 「彼らは雪解け水から激しい熱へ移行するであろう」という『ヨブ記』第二十四章の言葉のとおり、 彼らに対する罰においては変転が存在する。 したがって、 「彼らの時間は時代を重ねるであろう」という『詩編』の言葉のとおり、 地獄においては真の永遠性は存在せず、 存在するのはむしろ時間である。

[二八六一九]第一部第十問題第三項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 「必然的なもの」は、真理のある種の様態を意味する。 ところで、哲学者の『形而上学』第六巻によれば、 真であるものは知性の中に存在する。 したがって、真であるものと必然的なものが永遠であるのは、 それらが永遠の知性の中に存在するからであり、 それは神的な知性のみである。 したがって、神以外の何かが永遠であるということは、帰結しない。

神学大全第一部第十問題第三項
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