神学大全第一部第十問題第一項
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第一項

[二八五八九]第一部第十問題第一項第一異論

第一のものについては次のように進められる。 ボエティウスが『哲学の慰め』第五巻で与えている、「永遠性とは、 際限のない生命の、 同時的に全体的でかつ完全な所有である」という永遠性の定義は、 適切ではないと思われる。

なぜなら、 「際限のない」というのは否定的な言葉だからである。 ところで、否定は、欠陥があるものの場合を除いて、 概念の中に含まれないのであり、 欠陥があるということは永遠性には適合しない。 したがって、永遠性の定義の中に、 「際限のない」という言葉は置かれるべきではない。

[二八五九〇]第一部第十問題第一項第二異論

さらに、「永遠性」は何らかの持続を意味している。 ところで、持続は、生命よりもむしろ存在に関係する。 したがって、永遠性の定義の中には、「生命」ではなく、 むしろ「存在」が置かれるべきであった。

[二八五九一]第一部第十問題第一項第三異論

さらに、「全体的」と言われるのは、部分を持つものである。 ところで、このことは永遠性には適合しない。 なぜなら、永遠性は単純だからである。 したがって、それが「全体的」と言われるのは不適切である。

[二八五九二]第一部第十問題第一項第四異論

さらに、 複数の日や複数の時間が同時に存在することはできない。 ところが、永遠性においては、日と時間は複数形で語られる。 すなわち、『ミカ書』第五章では、「彼の出生は始まりからであり、 永遠性の日々からである」と語られており、 また『ローマの信徒への手紙』第十六章では、 「永遠の諸時間にわたって黙されていた奥義の啓示によって」 と語られている。 したがって、永遠性は、その全体が同時に存在するわけではない。

[二八五九三]第一部第十問題第一項第五異論

さらに、「全体」と「完全なもの」は同じである。 したがって、「全体的な」と措定されているならば、 「完全な」と付加するのは蛇足である。

[二八五九四]第一部第十問題第一項第六異論

さらに、所有は、持続には属さない。 ところで、永遠性は一種の持続である。 したがって、永遠性は所有ではない。

[二八五九五]第一部第十問題第一項主文

私は答えて言わなければならない。 我々が、 複合されたものによって単純なものの認識に到達しなければならないのと同様に、 我々は、時間によって永遠性の認識に到達しなければならない。 時間とは、 より前であるかよりあとであるかということによる運動の数以外の何物でもない。 すなわち、いかなる運動においても、継起が存在し、 一つの部分が他の部分のあとに続くのであるから、我々は、 運動の中にあるより先のものとよりあとのものを数えることによって時間を把握するのであり、 時間は、 運動の中にあるより先のものとよりあとのものの数以外の何物でもない。 ところが、運動を欠いていて、 常に同じ様態を保っているものにおいては、 より先であるかよりあとであるかを判断することができない。 したがって、時間という概念が、 運動の中にあるより先のものとよりあとのものの数値化のうちに成り立つのと同様に、 永遠性という概念は、 完全に運動の外にあるものの一様性の把握のうちに成り立つ。

さらに、『自然学』第四巻の中で述べられているように、 「時間によって測定される」と言われるものは、 時間の中に始まりと終わりを持つが、これは、 運動するすべてのものにおいて、 何らかの始まりと何らかの終わりを判断することができるからである。 それに対して、完全に不変であるものは、継起を持つことができず、 同様に、始まりも終わりも持つことができない。

したがって、永遠性は、二つのことによって知られる。 第一に、永遠性において存在するものは、際限がない、 すなわち始まりと終わりを欠いている(「際限」は、 それらの両方に対して関係を持つ)、ということによって知られる。 第二に、永遠性それ自体は継起を欠いており、 その全体が同時に存在する、ということによって知られる。

[二八五九六]第一部第十問題第一項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 単純なものは否定によって定義されるのが常である。 たとえば、点は、「部分が存在しないもの」と定義される。 これは、否定がそれらのものの本質に属しているからではなく、 複合されたものを最初に把握する我々の知性が、 複合されたものの除去によってでなければ、 単純なものの認識に到達することができないからである。

[二八五九七]第一部第十問題第一項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 真に永遠であるものは、単に存在しているものであるのみではなく、 生きているものでもある。 生きるということそれ自体は、 何らかの意味において働きにまで及ぶが、それに対して、 存在するということは、そこまでには及ばない。 ところで、持続の延長は、存在に関してよりもむしろ、 働きに関して認められると思われる。 時間が運動の数であるというのも、この理由によるものである。

[二八五九八]第一部第十問題第一項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 永遠性が「全体的」と言われるのは、 それが部分を持つからではなく、 それに欠けているいかなるものもない限りにおいてである。

[二八五九九]第一部第十問題第一項第四異論解答

第四のものについては次のように言わなければならない。 神が、非物体的であるにもかかわらず、 聖書においては物体的な事物の名辞によって比喩的に名づけられているのと同様に、 永遠性も、その全体が同時に存在するにもかかわらず、 時間的で継起的な名辞によって名づけられる。

[二八六〇〇]第一部第十問題第一項第五異論解答

第五のものについては次のように言わなければならない。 時間においては、認められることが二つある。 すなわち、継起的なものである時間それ自体と、 不完全なものである時間の「今」である。 したがって、 「同時的に全体的」と述べているのは時間を排除するためであり、 「完全な」と述べているのは時間の「今」を排除するためである。

[二八六〇一]第一部第十問題第一項第六異論解答

第六のものについては次のように言わなければならない。 所有されるものは、堅固に、そして穏やかに保たれている。 したがって、「所有」という名辞が使われているのは、 永遠性の不変性と無欠性を明示するためである。

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