神学大全第一部第九問題第一項
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第一項

[二八五七二]第一部第九問題第一項第一異論

第一のものについては次のように進められる。 神は、 あらゆる意味において不変であるというわけではないと思われる。

なぜなら、自身を動かすものは、それが何であろうと、 何らかの意味で可変的だからである。 ところで、アウグスティヌスは『創世記逐語解』で、 「創造者である霊は、時間によってではなく、 場所によってでもなく、自身を動かす」と述べている。 したがって、神は、何らかの意味で可変的である。

[二八五七三]第一部第九問題第一項第二異論

さらに、『知恵の書』第七章では、知恵について、 「それは動きやすいすべてのものよりも動きやすい」 と述べられている。 ところで、神は知恵そのものである。 したがって、神は可動的である。

[二八五七四]第一部第九問題第一項第三異論

さらに、 「近づくこと」と「遠ざかること」は運動を意味している。 ところで、聖書においては、 この種のことが神について述べられている。 すなわち、『ヤコブへの手紙』第四章では、「神に近づきなさい。 そうすれば彼はあなたがたに近づくでしょう」と述べられている。 したがって、神は可変的である。

[二八五七五]第一部第九問題第一項反対異論

しかし反対に、『マラキ書』第三章では、「神である私は、 変わることがない」と述べられている。

[二八五七六]第一部第九問題第一項主文

私は答えて言わなければならない。 神があらゆる意味において不変であるということは、 これまでに述べられたことによって示される。

まず第一の理由は、次のことがすでに示されているからである。 何らかの第一の存在者が存在し、我々はそれを神と呼んでいる。 この種の第一の存在者は、いかなる可能態の混合物も持たない、 純粋な現実態でなければならない。 なぜなら、可能態は、 端的な意味においては現実態よりもあとのものだからである。 ところで、いかなる方法であろうと、変化するすべてのものは、 何らかの意味で可能態にある。 このことから、神が変化することはいかなる方法でも不可能である、 ということは明らかである。

第二の理由は、すべての運動するものは、 あるものに関しては留まり、 あるものに関しては変移するからである。 たとえば、白色から黒色へ運動するものは、 実体に関しては留まっている。 したがって、すべての運動するものの中には、 何らかの複合が認められる。 ところが、神の中にはいかなる複合も存在せず、 彼はいかなる意味においても単純である、 ということがすでに示されている。 したがって、神は運動することができない、 ということは明らかである。

第三の理由は、すべての運動するものは、 その運動によって何かを獲得し、 それ以前には到達していなかったものに到達するからである。 ところが、神は無限であり、 全体的な存在の完全性のすべての充満を 彼自身の中に包含しているのであるから、 彼は、何かを獲得することも、 それ以前には到達していなかったものに 自身を拡張することもできない。 したがって、運動は、いかなる意味においても彼には適合しない。

古代の人々のうちのある者たちが、 あたかも真理そのものから強制されたかのように、 第一の根源は不動であると主張したのは、 このような理由によるものである。

[二八五七七]第一部第九問題第一項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 アウグスティヌスは、ここでは、プラトンが、 「第一動者は自身を動かす」と述べ、 すべての働きを「運動」と名づけた、 その意味で語っているのである。 この意味では、理解することも、意志を持つことも、愛することも、 「運動」と呼ばれる。 したがって、神は自身を理解し、愛するのであるから、彼らは、 この意味において「神は自身を動かす」と述べたのであって、 我々が今、変化と運動について語っているような、 運動と変化は可能態において実在するものであるという 意味においてではない。

[二八五七八]第一部第九問題第一項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 知恵は、 それとの類似性を最遠の事物にまで拡散させるという意味で、 比喩的に「動きやすい」と言われる。 なぜなら、工芸品が職人の知恵から発出するように、 作出的で形相的な第一の根源としての神的な知恵から、 何らかの模倣によって発出しないものは、 いかなるものであろうと存在することができないからである。 したがって、神的な知恵との類似性が、 その類似性をより多く分有する最上位のものから、 より少なく分有する最下位の事物にまで、 段階的に発出する限りにおいて、神的な知恵の、 事物に対する一種の発出と運動が存在すると言われる。 それは、太陽の光の放射が大地にまで到達する限りにおいて、 太陽が大地にまで発出すると我々が言うのと同様のことである。 ディオニュシオスが『天上位階論』第一章で、 「神的な顕示のいかなる発出も、 光の父の運動から我々に到達する」と述べているのも、 この意味を説明しているのである。

[二八五七九]第一部第九問題第一項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 これに類することが聖書の中で神について述べられるのは、 比喩的なものである。 なぜなら、太陽が家に入るとか家から出るとかと言われるのが、 その光線が家に到達する限りにおいてであるのと同様に、 神が我々に近づくとか我々から遠ざかるとかと言われるのも、 我々が彼の善性の流入を知覚したり、 彼を拒絶したりする限りにおいてであるからである。

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