神学大全第一部第八問題第四項
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第四項

[二八五五七]第一部第八問題第四項第一異論

第四のものについては次のように進められる。 到る所に存在するということは神に固有のことではないと思われる。

なぜなら、哲学者によれば、普遍は、到る所に、 そして常に存在するからである。 第一質料も、すべての物体の中に存在するのであるから、 到る所に存在する。 ところが、すでに述べられたことから明らかなように、 これらのどちらも神ではない。 したがって、 到る所に存在するということは神に固有のことではない。

[二八五五八]第一部第八問題第四項第二異論

さらに、数は、数えられるものの中に存在する。 ところで、『知恵の書』第十一章によって明らかなように、 全宇宙は数において構成されている。 したがって、全宇宙の中に存在し、したがって到る所に存在する、 何らかの数が存在する。

[二八五五九]第一部第八問題第四項第三異論

さらに、『天界について』第一巻の中で述べられているように、 全宇宙というのは、言わば、全体的で完全な物体である。 ところで、全宇宙は到る所に存在する。 なぜなら、それの外にはいかなる場所も存在しないからである。 したがって、神のみが到る所に存在するというわけではない。

[二八五六〇]第一部第八問題第四項第四異論

さらに、もしも無限の物体が存在するならば、 それの外にはいかなる場所も存在しないであろう。 したがって、それは到る所に存在するであろう。 したがって、 到る所に存在するということは神に固有のことではないと思われる。

[二八五六一]第一部第八問題第四項第五異論

さらに、アウグスティヌスは『三位一体論』第六巻の中で、 「魂は、身体の全体の中にその全体が存在し、 しかも身体のいかなる部分の中にもその全体が存在する」 と述べている。 したがって、 もしも一体の生物のみを除いて世界の中に何も存在しないならば、 その生物の魂は到る所に存在するであろう。 したがって、 到る所に存在するということは神に固有のことではない。

[二八五六二]第一部第八問題第四項第六異論

さらに、アウグスティヌスは、ヴォルシアヌスへの書簡の中で、 「魂は、それが見る場所で知覚し、それが知覚する場所で生き、 それが生きる場所で存在する」と述べている。 ところで、魂は、いわば到る所で見ている。 なぜなら、それは、継起的には天の全体をも見るからである。 したがって、魂は到る所に存在する。

[二八五六三]第一部第八問題第四項反対異論

しかし反対に、 アンブロシウスは『聖霊論』の中で次のように述べている。 「神性に固有のものであることが確実であり、万物の中に、 到る所に、そして常に存在する聖霊を、 誰があえて被造物と呼ぶであろうか」

[二八五六四]第一部第八問題第四項主文

私は答えて言わなければならない。 第一義的に、 そしてそれ自体によって到る所に存在するということは、 神に固有のことである。

ここで、 「第一義的に到る所に存在する」と私が述べているのは、 全体がそれ自体として到る所に存在するという意味である。 すなわち、もしも何かが、 異なる部分が異なる場所に存在するということによって、 到る所に存在するとしても、それは、 第一義的に到る所に存在するわけではない。 なぜなら、それの部分であるという理由で何かに適合するものは、 第一義的にそれに適合するわけではないからである。 たとえば、ある人間が歯において白い場合、その白さは、 第一義的には、その人間に適合するのではなく、 その歯に適合する。

また、 「それ自体によって到る所に存在する」と私が述べているのは、 到る所に存在するということが、付帯的な意味で、 すなわち何らかの仮定を設けた結果として、 それに適合するのではないもののことを意味している。 なぜなら、この意味では、一粒のキビでさえ、 それ以外のいかなる物体も存在しないと仮定するならば、 到る所に存在することになるであろうからである。 したがって、それ自体によって到る所に存在する、 ということが何かに適合するのは、 いかなる前提が置かれたとしても、 それが到る所に存在するということが帰結する、 そのような種類のものの場合である。 そして、このことは神に固有的に適合する。 なぜなら、どれだけ多くの場所が措定されようとも、 たとえ、 現に存在するもの以外に無限に多くの場所が措定されたとしても、 神は、 それらのすべての場所に存在しなければならないであろうからである。 なぜなら、いかなるものも、 彼によってでなければ存在することができないからである。

したがって、第一義的に、 そしてそれ自体によって到る所に存在するということは、 神に適合し、そしてそれは彼に固有のことである。 なぜなら、どれだけ多くの場所が措定されようとも、神は、 部分としてではなく、まさに彼自身として、 そのいかなる場所にも存在しなければならないからである。

[二八五六五]第一部第八問題第四項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 普遍と第一質料は、確かに到る所に存在する。 しかし、それらは、 同じ意味の「存在」によって到る所に存在するのではない。

[二八五六六]第一部第八問題第四項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 数は付帯性であるから、それは、それ自体によってではなく、 付帯的な意味で、場所において存在する。 またそれは、数えられるもののいずれにおいても、 全体としてではなく、部分として存在する。 したがって、第一義的に、 そしてそれ自体によってそれが到る所に存在するということは、 帰結されない。

[二八五六七]第一部第八問題第四項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 宇宙という物体の全体は、到る所に存在する。 しかし、それは第一義的にではない。 なぜなら、それは、 いかなる場所にもその全体が存在するというわけではなく、 それぞれの場所に存在するのはそれの部分だからである。 さらにまた、それは、 それ自体によって到る所に存在するのでもない。 なぜなら、もしも何らかの他の場所が仮定されたならば、 それらの場所にそれは存在しないであろうからである。

[二八五六八]第一部第八問題第四項第四異論解答

第四のものについては次のように言わなければならない。 もしも無限の物体が存在するならば、 それは到る所に存在するであろう。 しかし、それが到る所に存在するのは、それの部分としてであろう。

[二八五六九]第一部第八問題第四項第五異論解答

第五のものについては次のように言わなければならない。 もしも存在するものが一体の生物のみであるならば、 その生物の魂は、確かに第一義的に到る所に存在するであろう。 しかし、それが到る所に存在するのは、 付帯的な意味においてであろう。

[二八五七〇]第一部第八問題第四項第六異論解答

第六のものについては次のように言わなければならない。 「魂がどこかで見る」と言われる場合、 それは二通りの意味で理解されることができる。

一つは、「どこかで」というこの副詞が、 見るという行為を対象の側から限定する限りにおける意味である。 この意味においては、魂が天を見ているとき、 それが天において見ているということは真である。 そして、それが天において知覚しているということも、 同じ理由で真である。 しかし、魂が天において生きている、あるいは存在している、 ということは帰結されない。 なぜなら、生きることと存在することは、 外部の対象へ移行する行為を含意しないからである。

もう一つは、この副詞が、見るものの行為を、 見るものからその行為が出るという意味で限定する限りにおいて、 理解されることができる意味である。 したがって、「魂は、それが知覚し、そして見る場所で、存在し、 そして生きる」ということが真であるのは、 それがこの語り方によるものである限りにおいてである。

したがって、魂が到る所に存在するということは、 帰結されない。

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