神学大全第一部第六問題第四項
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第四項

[二八四八八]第一部第六問題第四項第一異論

第四のものについては次のように進められる。 万物が善であるのは神の善性によってであると思われる。

なぜなら、アウグスティヌスは『三位一体論』第七巻で、 「もしもできるならば、この善とあの善から、「この」を取り去り、 「あの」を取り去り、善それ自体を見よ。 そうすればあなたは、他の善によって善であるのではない、 すべての善の善である神を見るであろう」 と述べているからである。 ところで、個々のものは、それ自身の善によって善である。 したがって、個々のものが善であるのは、 神である善それ自体によってである。

[二八四八九]第一部第六問題第四項第二異論

さらに、 ボエティウスが『デ・ヘブドマディブス』の中で述べているように、 万物が善であると言われるのは、 それらが神に向けて秩序づけられている限りにおいてであり、 これは神の善性という性質によるものである。 したがって、万物が善であるのは神の善性によってである。

[二八四九〇]第一部第六問題第四項反対異論

しかし反対に、万物は、 それらが存在する限りにおいて善である。 ところで、万物が存在者であると言われるのは、 神の存在によってではなく、 それらに固有の存在によってである。 したがって、万物が善であるのは、神の善性によってではなく、 それらに固有の善性によってである。

[二八四九一]第一部第六問題第四項主文

私は答えて言わなければならない。 関係を含意することがらにおいては、いかなるものも、 外部のものにもとづいて何かが命名されることを妨げない。 たとえば、位置が与えられた何かはその場所によって命名され、 測定された何かはその尺度によって命名される。 それに対して、絶対的な意味で語られることがらをめぐっては、 その見解は分かれていた。 すなわち、プラトンは、 すべての事物について分離された種を措定して、個体は、 分離された種を分有することによって、 その種にもとづいて命名されると考えた。 たとえば、ソクラテスが人間であると言われるのは、 分離された人間のイデアにもとづくものである。 そして彼は、分離された人間と馬のイデアを措定して、 それを「人間自体」と「馬自体」と呼んだのと同様に、 分離された存在者のイデアと一のイデアを措定して、 それを「存在者自体」と「一自体」と呼び、 個々のものが存在者または一であると言われるのは、 それを分有することによってであると考えた。 さらに彼は、 善自体であり一自体であるものが神という最高のものであり、 万物は、 彼にもとづいて分有という様態によって善であると言われる、 と主張した。 この見解は、 アリストテレスがさまざまな方法で証明しているように、 自然界の事物について、 それ自体によって自存する分離された種を措定した点において 不合理であるとしても、 すでに述べられたことから明らかなように、我々が神と呼ぶ、 それ自身の本質によって善である 一つの何かが存在するということは、 絶対的に真である。 この意見に対しては、アリストテレスも同意を示している。

したがって、個々のものは、 それ自身の本質によって存在者であり善である 第一のものにもとづいて、 すでに述べられたことから明らかなように、遠く隔たり、 及びもつかないものではあるが、 何らかの類似化という様態によって 第一のものを分有する限りにおいて、 善であり存在者であると言われることができる。 したがって、個々のものが善であると言われるのは、 善性全体の範型的で作出的で目的的な 第一の根源としての神の善性によってである。 それにもかかわらず、個々のものが善であると言われるのは、 それ自身に内属する神の善性との類似性によってである。 この類似性が、形相的な意味での個々のものの善性であり、 個々のものを「善」と命名する。 したがって、万物の善性は一つであり、 しかも多数の善性が存在するのである。

[二八四九二]第一部第六問題第四項異論解答

そして、これによって異論に対する解答は明らかである。

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