神学大全第一部第五問題第六項
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第六項

[二八四五七]第一部第五問題第六項第一異論

第六のものについては次のように進められる。 善が、有徳なもの、有用なもの、快適なものに区分される、 というのは適切ではないと思われる。

なぜなら、哲学者が『倫理学』第一巻の中で述べているように、 善は十の範疇に区分されるからである。 ところが、有徳なもの、有用なもの、快適なものは、 一つの範疇の中に見出されることができる。 したがって、善がそれらに区分されるというのは適切ではない。

[二八四五八]第一部第五問題第六項第二異論

さらに、いかなる区分も、対立するものによってなされる。 ところが、それらの三つのものは、対立しているとは思われない。 なぜなら、有徳なものは快適であり、 いかなる非有徳なものも有用ではないからである (もしも対立するものによって区分がなされるならば、 有徳なものと有用なものとが対立するためには、 非有徳なものは有用でなければならないはずである)。 キケロも、『義務について』の中でこのことについて述べている。 したがって、前述の区分は適切ではない。

[二八四五九]第一部第五問題第六項第三異論

さらに、一つのものが他のもののために存在する場合、 存在するのは一つのもののみである。 ところで、有用なものは、 それが快適なものまたは有徳なもののために 存在するのではないならば、 善ではない。 したがって、有用なものは、 快適なものと有徳なものに対立するものとして 区分されてはならない。

[二八四六〇]第一部第五問題第六項反対異論

しかし反対に、アンブロシウスは『義務について』の中で、 善のこの区分を使用している。

[二八四六一]第一部第五問題第六項主文

私は答えて言わなければならない。 この区分は、本来的には人間的な善に関する区分であると思われる。 しかし、もしも我々が、 より高次でより一般的な善の性質を考察するならば、この区分が、 善である限りにおける善に本来的に適合する、 ということが見出される。

なぜなら、何かが善であるのは、それが欲求され得るものであり、 欲求の運動の終端である限りにおいてだからである。 このような運動の終端は、 自然界の物体の運動についての考察にもとづいて 考察することができる。 ところで、自然界の物体の運動が終結させられるのは、 端的な意味では最終点においてである。 しかし、限られた意味においては、 運動を終結させる最終点へ向かうために通過される 中間点においても、 運動は終結させられている。 したがって、あるものは、 運動の何らかの部分を終結させる限りにおいて、 運動の終端と呼ばれる。 ところで、運動の究極的な終端であるものは、 二通りに理解されることができる。 すなわちそれは、運動がそこへ向かう事物それ自体、 たとえば場所や形相であるか、 それともその事物における静止であるかのいずれかである。 したがって、欲求の運動においては、 それを通って他のものへ向かう中間点として、 欲求の運動を限られた意味で終結させる欲求され得るものが、 「有用なもの」と呼ばれる。 また、 欲求の運動を全面的に終結させる 究極的なものとして欲求されるもの、 すなわち欲求がそれ自体としてそれへ向かうある種の事物が、 「有徳なもの」と呼ばれる。 なぜなら、「有徳なもの」と呼ばれるのは、 それ自体のために熱望されるもののことだからである。 そして、 熱望された事物における静止として欲求の運動を終結させるものが、 快適さである。

[二八四六二]第一部第五問題第六項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 善が十の範疇に区分されるのは、 その基体が存在者と同じである限りにおいてである。 しかし、善に固有の性質にもとづいて考えるならば、 この区分は善に適合する。

[二八四六三]第一部第五問題第六項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 この区分は、対立する事物によるものではなく、 対立する概念によるものである。 ところで、「快適なもの」と呼ばれるのは、 本来の意味においては、 時として有害なものであったり非有徳なものであったとしても、 快適さのほかには、 欲求され得る他のいかなる性質も持たないものである。 また、「有用なもの」と呼ばれるのは、 たとえば苦い薬の服用がそうであるように、 熱望される理由をそれら自体のうちに持つのではなく、 それらが他のものへ導くものである場合にのみ 熱望されるものである。 それに対して、「有徳なもの」と呼ばれるのは、 熱望される理由をそれら自体のうちに持つものである。

[二八四六四]第一部第五問題第六項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 善がこれらの三つのものに区分されるのは、 これらについて等しい意味で述語とされる 同義的なものとしてではなく、 より先にあるものとよりあとにあるものという 順序に応じて述語とされる類比的なものとしてである。 なぜなら、善は、より先にあるものとしては有徳なものについて、 第二のものとしては快適なものについて、 第三のものとしては有用なものについて述語とされるからである。

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