神学大全第一部第五問題第五項
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第五項

[二八四四五]第一部第五問題第五項第一異論

第五のものについては次のように進められる。 善の性質は 様態と種と秩序のうちに成り立つものではないと思われる。

なぜなら、すでに述べられたように、 善と存在者とは概念的に異なるものだからである。 ところで、様態と種と秩序は、 存在者という概念に属すると思われる。 なぜなら、『知恵の書』第十一章で、 「あなたは万物を数と重さと長さのうちに配置した」 と述べられているからである。 種と様態と秩序はこれらの三つのものに還元される。 なぜなら、アウグスティヌスは『創世記逐語解』第四巻で、 「長さは万物の様態を定め、数は万物に種を与え、 重さは万物を静止と安定に向けて牽引する」 と述べているからである。 したがって、善の性質は、 様態と種と秩序のうちに成り立つものではない。

[二八四四六]第一部第五問題第五項第二異論

さらに、様態と種と秩序のそれぞれは、 それ自身がある種の善である。 したがって、 もしも善の性質が様態と種と秩序のうちに成り立つならば、様態は、 様態と種と秩序を持たなければならず、 種と秩序についても同様である。 したがって、これは無限に進むであろう。

[二八四四七]第一部第五問題第五項第三異論

さらに、悪は様態と種と秩序の欠如である。 しかし、悪は、全面的に善を除去するわけではない。 したがって、善の性質は、 様態と種と秩序のうちに成り立つものではない。

[二八四四八]第一部第五問題第五項第四異論

さらに、善の性質がそのうちに成り立つものは、 悪と呼ばれることができない。 ところが、悪なる様態、悪なる種、 悪なる秩序と呼ばれるものがある。 したがって、善の性質は、 様態と種と秩序のうちに成り立つものではない。

[二八四四九]第一部第五問題第五項第五異論

さらに、 引用されたアウグスティヌスの典拠から明らかであるように、 様態と種と秩序は、重さと数と長さを原因として生ずる。 ところが、 すべての善なるものが重さと数と長さを持つとは限らない。 なぜなら、アンブロシウスは『ヘクサエメロン』において、 「光の本性は、数において造られたものでもなく、 重さにおいて造られたものでもなく、 長さにおいて造られたものでもない」と述べているからである。 したがって、善の性質は、 様態と種と秩序のうちに成り立つものではない。

[二八四五〇]第一部第五問題第五項反対異論

しかし反対に、 アウグスティヌスは『善の本性について』において 次のように述べている。 「様態と種と秩序というこれらの三つのものは、 神によって造られた事物における、いわば一般的な善である。 したがって、 これらの三つのものが大であるところには大なる善があり、 小であるところには小なる善があり、 存在しないところにはいかなる善も存在しない」と。 このようなことは、 もしも善の性質がこれらのもののうちに成り立つのでないならば、 あり得ないであろう。 したがって、善の性質は、様態と種と秩序のうちに成り立つ。

[二八四五一]第一部第五問題第五項主文

私は答えて言わなければならない。 個々のものは、それが完全である限りにおいて善と呼ばれる。 なぜなら、すでに述べられたように、個々のものは、 それが完全である限りにおいて欲求され得るからである。 ところで、完全なものと呼ばれるのは、 それの完全性の様態に関して 何一つとして欠けるところのないものである。 さらに、個々のものが何であるかということは、 それ自身の形相によって定まるのであり、 そして、形相は何らかのものを前提とし、 何らかのものは必然的に形相の結果として生ずるのであるから、 何かが完全であり、そして善であるためには、 それが形相を持つこと、 形相のためにあらかじめ要求されるものを持つこと、 そして形相の結果として生ずるものを持つことが必要である。

ところで、形相のためにあらかじめ要求されるものは、 質量的な根源または形相を作出する根源の 限定性または同等性であり、 これが、「様態」によって表示されるものである。 「尺度は様態を定める」と言われるのは、このためである。

また、形相それ自体は「種」によって表示される。 なぜなら、個々のものは、 形相によって種のうちに構成されるからである。 「数は種を与える」と言われるのは、このためである。 なぜなら、哲学者が『形而上学』第八巻の中で述べているように、 種を表示する定義は数に似ているから、すなわち、 一が加算または減算されることが数の種を変えるのと同様に、 定義においても、 種差が付加または除去されることが種を変えるからである。

また、形相の結果として生じるのは、目的、作用、 あるいはそれらに類するものへの傾向性である。 なぜなら、個々のものは、 それが現実的に存在する限りにおいて作用し、 その形相に応じて自身に適合するものへ向かうからである。 そしてこれは、重さと秩序に属している。

したがって、善の性質は、 それが完全性のうちに成り立つ限りにおいて、 様態と種と秩序のうちにも成り立つ。

[二八四五二]第一部第五問題第五項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 存在者が完全であり、 そしてそれによって存在者が善であるのでない限り、 それらの三つのものが存在者の結果として生じることはない。

[二八四五三]第一部第五問題第五項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 様態と種と秩序が善であると言われる理由は、 それらが存在者であると言われる理由と同様に、 それら自身が自存するものだからではなく、 それらによって他のものが存在者であり善であるからである。 したがって、それら自身は、 それらが善であるのがそれらによってである他の何かを 持つ必要がない。 すなわち、それらが善であると言われる理由は、 他のものによってそれらが形相的に善であるからではなく、 それら自身によって何かが形相的に善であるからである。 それは、白さが存在者であると言われるのが、 何かによってそれが存在するからではなく、 それによって何かが限られた意味で存在するから、 すなわち白いものとして存在するからであるのと同様である。

[二八四五四]第一部第五問題第五項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 いかなる存在も、何らかの形相によって存在する。 したがって、事物のいかなる存在によっても、 様態と種と秩序がその事物の結果として生ずる。 たとえば、人間は、 人間である限りにおいて種と様態と秩序を持っており、同様に、 白い者である限りにおいても様態と種と秩序を持っており、 有徳の者である限りにおいても、有識の者である限りにおいても、 その者について語られるいかなることに関しても同様である。 ところが、悪は何らかの存在を欠いている。 たとえば、盲目は視力という存在を欠いている。 したがって、それは、 すべての様態と種と秩序を除去するのではなく、 視力という存在を結果として生ずる様態と種と秩序を 除去するにすぎない。

[二八四五五]第一部第五問題第五項第四異論解答

第四のものについては次のように言わなければならない。 アウグスティヌスは 『善の本性について』の中で次のように述べている。 「いかなる様態も、様態である限りにおいて善である」 (種と秩序についても同じことが言われ得る) 「それにもかかわらず、悪なる様態、悪なる種、 悪なる秩序が語られるのは、 あって然るべきものよりもそれらが少ないからであるか、または、 それらが適合するべき事物に適合していないからである。 したがって、それらが悪と呼ばれるのは、 それらが不適切で不調和だからである」

[二八四五六]第一部第五問題第五項第五異論解答

第五のものについては次のように言わなければならない。 光の本性は数も重さも長さもなしに存在すると言われるが、 それは端的な意味においてではなく、 物体的なものとの比較においてである。 なぜなら、光の力は、変化を生じさせる第一の物体の、 すなわち天体の、作用的な性質である限りにおいて、 すべての物体的なものに及ぶからである。

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