神学大全第一部第五問題第二項
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第二項

[二八四一七]第一部第五問題第二項第一異論

第二のものについては次のように進められる。 善は存在者よりも概念的に先行すると思われる。

なぜなら、名前の順序は、 名前によって表示される事物の順序を反映するからである。 ところで、ディオニュシオスは、 『神名論』第三章において明らかなように、 神の別の名前のうちで、「存在者」よりも「善」を先に置いている。 したがって、善は存在者よりも概念的に先行する。

[二八四一八]第一部第五問題第二項第二異論

さらに、より多くのものに自身を拡張するものは、 概念的に先行する。 ところで、善は、存在者よりも多くのものに自身を拡張する。 なぜなら、ディオニュシオスが『神名論』第五章において、 「善は実在するものにも実在しないものにも自身を拡張するが、 それに対して、 存在者は実在するものにのみ自身を拡張する」 と述べているとおりだからである。 したがって、善は存在者よりも概念的に先行する。

[二八四一九]第一部第五問題第二項第三異論

さらに、より普遍的なものは、概念的に先行する。 ところで、善は存在者よりも普遍的であると思われる。 なぜなら、善は欲求され得るものという性質を持つが、 ある人々にとっては、 存在しないことがまさに欲求され得るものだからである。 たとえば、『マタイによる福音書』第二十六章では、ユダについて、 「もしも生まれなかったならば、 彼のためには善だったのに」云々と言われている。 したがって、善は存在者よりも概念的に先行する。

[二八四二〇]第一部第五問題第二項第四異論

さらに、欲求され得るものは存在のみではない。 生、知恵、そしてそれに類する多くのものも、 欲求され得るものである。 したがって、存在は欲求され得るものの特殊な一つであり、 善は普遍的に欲求され得るものであると思われる。 したがって、 端的な意味での善は存在者よりも概念的に先行する。

[二八四二一]第一部第五問題第二項反対異論

しかし反対に、『原因論』においては、 「被造物のうちで第一のものは存在である」と述べられている。

[二八四二二]第一部第五問題第二項主文

私は答えて言わなければならない。 存在者は善よりも概念的に先行する。 なぜなら、名辞によって表示される概念は、 知性が事物について思い描き、 言葉によって表示するものだからである。 したがって、知性の思い描くところにおいて先行するものは、 概念的に先行する。 ところで、 知性の思い描くところにおける第一のものは存在者である。 なぜなら、『形而上学』第九巻において述べられているように、 個々のものが認識され得るのは、 それが現実に存在する限りにおいてだからである。 したがって、存在者は知性の固有の対象であり、 聴かれ得る第一のものが音であるのと同様に、 知性の対象となり得る第一のものは存在者である。 したがって、存在者は善よりも概念的に先行する。

[二八四二三]第一部第五問題第二項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 ディオニュシオスは、 原因という神の側面を含意するものとして 神の名前について論じているのである。 なぜなら、彼が述べているように、 我々は被造物から神を名づけているが、これは、 結果から原因を名づけるということだからである。

ところで、「善」は、 欲求され得るという意味を持っているのであるから、 目的因という側面を含意している。 そして目的因の原因性は第一のものである。 なぜなら、 質料が形相に向かって動かされるのは作用者によってであり、 作用者は、目的のためでないならば作用しないからである。 目的が原因の原因であると言われるのはそのためである。 このように、 原因になるという点においては目的が形相よりも先行するのであり、 その意味で善は存在者よりも先行する。 神の原因性を表示する名前のうちで、 「善」が「存在者」よりも先に置かれているのは、 この理由によるものである。

さらにまた、質料と欠如とを区別せず、 質料は非存在者であると述べたプラトン学派の人々によれば、 善の分有は存在者の分有よりも多くのものに自身を拡張する。 なぜなら、第一質料は善を分有しているからであり、その理由は、 第一質料は自身を欲求するからである(いかなるものも、 自身に似ていないものを欲求することはない)。 ところが、 第一質料は非存在者であると主張されているのであるから、 それは存在者を分有しない。 「善は実在しないものにまで拡張される」 とディオニュシオスが述べているのは、 この理由によるものである。

[二八四二四]第一部第五問題第二項第二異論解答

この理由によって、第二のものについての解答は明らかである。

あるいは次のように言ってもよい。 善が実在するものにも実在しないものにも拡張されるのは、 述語としてではなく原因性としてである。 この場合に 「実在しないもの」という言葉によって我々が理解するのは、 端的な意味でまったく存在しないものではなく、 可能態にあるもので現実態にはないものである。 なぜなら、善は目的という性質を持っており、目的は、 現実態にあるものがそれにおいて安らぐものであるだけではなく、 現実態にはなく単に可能態にあるだけのものが、 それに向かって動かされるものでもあるからである。 ところが、「存在者」は、 内在的な形相であるか範型的な形相であるかにかかわらず、 形相のほかには原因という側面を含意しない。 そして形相の原因性は、現実態にあるものにしか自身を拡張しない。

[二八四二五]第一部第五問題第二項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 非存在は、それ自体として欲求され得るのではなく、 付帯的な意味で欲求され得る。 すなわち、非存在が欲求され得るのは、 何らかの悪の除去が欲求され得るものであり、 その悪は非存在によって除去される、という場合に限られる。 ところが、悪によって何らかの存在が欠如している場合を除いて、 悪の除去は欲求され得ない。 したがって、それ自体として欲求され得るものは存在である。 それに対して非存在は、付帯的な意味でのみ、すなわち、 それが欠如していることを人間が許容しない何らかの存在が 欲求される限りにおいてのみ、 欲求され得る。 非存在もまた付帯的な意味で「善」と呼ばれるのは、 このような理由によるものである。

[二八四二六]第一部第五問題第二項第四異論解答

第四のものについては次のように言わなければならない。 生、知恵、そしてそれに類する他のものは、 それらが現実態において存在するようにと欲求される。 したがって、それらのすべてにおいて、 欲求されているものは何らかの存在である。 欲求され得るものが存在者のほかに何もないのは、 このような理由によるものである。 したがって、善であるものは存在者のほかには何もない。

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