神学大全第一部第五問題第一項
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第一項

[二八四〇九]第一部第五問題第一項第一異論

第一のものについては次のように進められる。 善は、存在者とは実在的に異なると思われる。

なぜなら、ボエティウスは『デ・ヘブドマディブス』の中で、 「事物において、それらが善であるということと、 それらが存在しているということは、 それぞれが別のことであると私は考えている」 と述べているからである。 したがって、善と存在者とは実在的に異なる。

[二八四一〇]第一部第五問題第一項第二異論

さらに、いかなるものも、 自分自身によって形成されることはない。 ところで、『原因論』についての注解の中で述べられているように、 善というのは、 存在者が形成されることによって そのように呼ばれるもののことである。 したがって、善は実在的に存在者とは異なる。

[二八四一一]第一部第五問題第一項第三異論

さらに、善は、より多いものとより少ないものを許容する。 ところが、存在は、より多いものとより少ないものを許容しない。 したがって、善は実在的に存在者とは異なる。

[二八四一二]第一部第五問題第一項反対異論

しかし反対に、 アウグスティヌスは『キリスト教の教え』の中で、「我々は、 存在する限りにおいて善である」と述べている。

[二八四一三]第一部第五問題第一項主文

私は答えて言わなければならない。 善と存在者は、実在的には同じものであり、 単に概念的に異なっているだけである。 これは以下の理由によって明らかである。 すなわち、善という概念は、 何かが欲求され得るものである ということのうちに成り立っているのであり、 哲学者が『倫理学』第一巻の中で、 「善というのは万物が欲求するもののことである」 と述べているのも、 この理由による。 ところで、個々のものは、 それが完全である限りにおいて欲求され得るものである、 ということは明らかである。 なぜなら、万物はそれ自身の完全性を欲求するからである。 ところで、個々のものが完全であるのは、 それが現実態にある限りにおいてである。 したがって、何かが善であるのは、 それが存在者である限りにおいてである、 ということは明らかである。 なぜなら、すでに述べられたことから明らかなように、 いかなる事物にとっても、存在はその現実性だからである。 したがって、善と存在者とは実在的には同じものであるが、 「善」は欲求され得るものという意味を表示するのに対して、 「存在者」はそれを表示しない、ということは明らかである。

[二八四一四]第一部第五問題第一項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 善と存在者とは実在的には同じものであるが、 概念的には異なっているのであるから、 何かが「端的な意味での存在者」と呼ばれる理由と、 何かが「端的な意味での善」と呼ばれる理由とは同じではない。

なぜなら、「存在者」は、本来の意味においては、 何かが現実態において存在することを表示しており、現実態は、 本来、可能態への関係を持つのであるから、 何かが「端的な意味での存在者」と呼ばれるのは、それが、 単に可能態にあるだけのものから 根源的に区別される限りにおいてだからである。 ところで、このような区別をもたらすものは、 個々の事物の実体的存在である。 したがって、 個々のものが「端的な意味での存在者」と呼ばれるのは、 それ自身の実体的存在によってである。 それに対して、何かが「限られた意味で存在する」と言われるのは、 付加的な現実態によってである。 たとえば、「白くあるということ」は、 限られた意味で存在することを表示している。 なぜなら、「白くあるということ」は、 現実態においてすでに先在しているものに、 それが付け加わるのであるから、 それが端的な意味で可能態にあることを排除しないからである。

それに対して、「善」は、完全なもの、 すなわち欲求され得るものという概念を述べており、したがって、 それは究極的なものという概念を述べている。 したがって、究極的に完全であるものは、 「端的な意味での善」と呼ばれる。 それに対して、 持たなければならない究極的な完全性を持たないものは、 たとえそれが、 現実態として存在する限りにおいて何らかの完全性を持つとしても、 「端的な意味で完全であるもの」とも 「端的な意味での善」とも呼ばれず、 限られた意味でそのように呼ばれるにすぎない。

したがって、あるものは、 実体的なものである第一の存在によって、 「端的な意味での存在者」と呼ばれるとともに、 「限られた意味での善」、すなわち、 「存在者である限りにおいての善」と呼ばれ、それに対して、 あるものは、究極的な現実態によって、 「限られた意味での存在者」と呼ばれるとともに、 「端的な意味での善」と呼ばれる。

したがって、ボエティウスが、「事物において、 それらが善であるということと、 それらが存在しているということは、 それぞれが別のことである」と述べているのは、 端的な意味で善であることと、 端的な意味で存在することについて 述べていると解釈されなければならない。 なぜなら、 あるものは第一の現実態によって端的な意味での存在者となり、 あるものは究極的な現実態によって 端的な意味での善となるからである。 それにもかかわらず、あるものは、 第一の現実態によって何らかの特定の様態での善であるとともに、 究極的な現実態によって 何らかの特定の様態での存在者でもある。

[二八四一五]第一部第五問題第一項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 善というのは、 形成されることによってそのように呼ばれるもののことである、 というのは、 究極的な現実態によって形成された端的な意味での善について 述べていると理解される限りにおいてである。

[二八四一六]第一部第五問題第一項第三異論解答

第三のものについても同様に次のように言わなければならない。 善に、より多いものとより少ないものがあると言われるのは、 たとえば知識や徳のような現実態が付加されることによってである。

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