第六のものについては次のように進められる。 神の中には何らかの偶有があると思われる。
なぜなら、『自然学』第一巻において述べられているように、 実体は、いかなるものの偶有でもないからである。 したがって、 あるものにおいて偶有であるものが 別のものにおいて実体であるということはあり得ない。 たとえば、熱が火の実体的形相ではないということは、 別のものにおいては熱が偶有であるという根拠によって証明される。 ところで、神には、知恵、力、 そして同様の他のものが帰属させられているが、 それらは我々の中においては偶有である。 したがって、それらは神の中においても偶有である。
さらに、 いかなる類においても第一のものがそれぞれに一つある。 ところで、偶有には多くの類がある。 したがって、 もしもそれらの類のそれぞれが持つ第一のものが 神の中にないのであれば、 神のほかに多くの第一のものが存在することになるが、 それは不合理である。
しかし反対に、すべての偶有は基体の中にある。 ところが、神は基体ではあり得ない。 なぜなら、 「単純形相は基体ではあり得ない」とボエティウスが 『三位一体論』の中で述べているとおりだからである。 したがって、神の中に偶有は存在することができない。
私は答えて言わなければならない。 神の中に偶有が存在することができないということは、 これまでに述べられたことから明らかである。
その理由は、まず第一に、基体は偶有に対して、 可能態が現実態に対する関係と同様の関係にあるということである。 なぜなら、ある意味で、 基体は偶有によって現実態となるからである。 ところが、すでに述べられたことから明らかなように、神からは、 可能態にあるということが完全に排除されている。
第二の理由は、神は彼自身の存在であるということであり、 そして、ボエティウスが『デ・ヘブドマディブス』において、 「存在するものは、 それとは別の何らかの付加されたものを持つことができる。 しかし、 存在それ自体は、 それとは別のいかなる付加されたものも持つことができない」 と述べているとおりであるということである。 たとえば、熱くなっているものは、熱以外の何か、 たとえば白さを持つことができるが、熱それ自体は、 熱以外にはいかなるものも持たない。
第三の理由は、 それ自体によって存在するすべてのものは 偶有として存在するものに先行するということである。 したがって、神は端的な意味で第一の存在者であるから、 いかなるものも、彼の中に偶有として存在することはできない。 さらに、たとえば人間の場合には、笑い得るというような、 それ自体による偶有があるが、彼の中には、 それ自体による偶有も存在することができない。 なぜなら、 そのような偶有は基体の原理から生じた結果だからである。 ところが、原因から生じたいかなる結果も、 神の中に存在することはできない。 なぜなら、彼は第一原因だからである。 したがって、神の中には、 いかなる偶有も存在しないということにならざるを得ない。
したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 力や知恵は、のちに明らかにされるであろうように、 神についてと我々についてとで同義的に語られるわけではない。 したがって、 我々の中に偶有があるように神の中にも偶有がある ということは帰結されない。
第二のものについては次のように言わなければならない。 実体は偶有に先行するものであるから、偶有の根源は、 それに先行するものとしての実体の根源に還元される。 神は、実体の類に含まれる第一のものではないが、 すべての類の外にある、 全体的な「存在」にとっての第一のものである。