神学大全第一部第三問題第一項
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第一項

[二八三二二]第一部第三問題第一項第一異論

第一のものについては次のように進められる。 神は物体であると思われる。

なぜなら、物体とは三つの次元を持つもののことだからである。 ところで、聖書は神に三つの次元を帰属させている。 なぜなら、『ヨブ記』第十一章において、「彼は天よりも高いのに、 あなたに何ができるのか。 彼は冥府よりも深いのに、あなたはいかにして知り得るのか。 彼の大きさは大地よりも長く海よりも広い」 と語られているからである。 したがって、神は物体である。

[二八三二三]第一部第三問題第一項第二異論

さらに、形を持つすべてのものは物体である。 なぜなら、形は量をめぐる性質だからである。 ところで、神は形を持つものであると思われる。 なぜなら、『創世記』第一章に、 「我々の像と似姿にもとづいて人間を造ろう」 と書かれているからである。 ここで「像」と言われているのは、形のことである。 『ヘブライ人への手紙』第一章において、「彼は、 彼の栄光の輝きですし、彼の実体の形ですから」と語られているが、 ここでは「形」がすなわち像のことである。 したがって、神は物体である。

[二八三二四]第一部第三問題第一項第三異論

さらに、身体の部分を持つすべてのものは物体である。 ところで、聖書は神に身体の部分を帰属させている。 なぜなら、『ヨブ記』第四十章において、 「もしもあなたが神のような腕を持つならば」と語られており、 また『詩編』においても、「主の眼は正しい人々の上にある」、 そして「主の右手は力を示した」と語られているからである。 したがって、神は物体である。

[二八三二五]第一部第三問題第一項第四異論

さらに、物体以外のものは姿勢を持たない。 ところが、聖書においては、 神についての姿勢に関することがらが語られている。 なぜなら、『イザヤ書』第六章において、 「私は主が座っているのを見た」と語られており、 また『イザヤ書』第三章においても、 「主は裁くために立つ」と語られているからである。 したがって、神は物体である。

[二八三二六]第一部第三問題第一項第五異論

さらに、いかなるものも、 もしもそれが物体または物体的な何かではないならば、 どこからあるいはどこまでという 場所的な限界であることはできない。 ところが、聖書においては、 神はどこまでという場所的な限界であると語られている。 すなわち、『詩編』において、「彼に近づき、 そして照らされよ」と語られている。 そして、どこからという限界についても、 『エレミア書』第十七章において、 「あなたから離れる者は大地の中に記録される」と語られている。 したがって、神は物体である。

[二八三二七]第一部第三問題第一項反対異論

しかし反対に、『ヨハネによる福音書』第四章において、 「神は霊です」と語られている。

[二八三二八]第一部第三問題第一項主文

私は答えて言わなければならない。 神は絶対に物体ではない。 このことは三通りの方法で示されることができる。

第一に、いかなる物体も、 動かされることなく動かすことはない。 このことは、個々の事例からの帰納によって明らかである。 ところが、神が不動の第一動者であるということは、 すでに示されたとおりである。 したがって、神が物体ではないということは明らかである。

第二に、第一の存在者であるものは現実態にあり、 いかなる点においても可能態にはないということは必然である。 なぜなら、可能態から現実態へ移行する一つの同じものにおいては、 時間的に可能態が現実態に先行するのであるが、 しかし、端的には現実態が可能態に先行するからである。 なぜなら、現実態にある存在者によってでなければ、 可能態にあるものが現実態に引き出されることはないからである。 ところで、神が第一の存在者であるということは、 すでに示されたとおりである。 したがって、 可能態にある何かが神の中に存在することはあり得ない。 ところが、あらゆる物体は可能態において存在する。 なぜなら、連続的なものは、そのようなものである限りにおいて、 無限に分割が可能なものだからである。 したがって、神が物体であるということはあり得ない。

第三に、すでに述べられたことから明らかなように、 神は存在者の中で最も高貴なものである。 ところで、 何らかの物体が存在者の中で最も高貴であるということは あり得ない。 なぜなら、物体は、 生きているか生きていないかのどちらかだからである。 ところで、 生きている物体が生きていない物体よりも高貴であるということは 明らかである。 ところで、生きている物体は、 物体である限りにおいて生きているのではない。 なぜなら、 もしも物体である限りにおいて生きているのであるならば、 あらゆる物体が生きているということになるからである。 したがって、生きている物体は、 物体以外の何かによって生きているのでなければならない。 たとえば、我々の身体は、魂によって生きているのである。 ところで、物体がそれによって生きているところのものは、 物体よりも高貴である。 したがって、神が物体であるということはあり得ない。

[二八三二九]第一部第三問題第一項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 すでに述べられたように、聖書は、 霊的なことがらや神的なことがらを、 物体的なものによる比喩のもとに我々に伝えている。 したがって、聖書が三つの次元を神に帰属させている場合、それは、 物体的な量による比喩のもとに彼の力の量を示している。 すなわち、深さによって、隠されたものを知る力を示し、 高さによって、万物に抜きん出た力の卓越性を示し、長さによって、 彼の存在の持続を示し、広さによって、 愛情が万物に及ぼされることを示している。 あるいは、 ディオニュシオスが『神名論』第九章で述べているように、 神の深さによって、 彼の本質が把握不能なものであることが理解され、 長さによって、万物に浸透する彼の力の発出が理解され、 そして広さによって、 万物が彼の保護のもとに包まれる限りにおける、 万物を覆う彼の広がりが理解される。

[二八三三〇]第一部第三問題第一項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 人間が神の像にもとづくものであると言われるのは、 身体に関してではなく、 人間がそれによって 他の動物を凌駕しているところのものに関してである。 『創世記』第一章で、 「我々の像と似姿にもとづいて人間を作ろう」と語られたのち、 それに続けて、「海の魚を支配させよう」、 そしてその他の動物も支配させよう、 と語られているのはそのためである。 ところで、人間はすべての動物を凌駕しているが、 それは理性と知性に関する限りにおいてである。 したがって、人間が神の像にもとづいているというのは、 非物体的なものである知性と理性に関してのことである。

[二八三三一]第一部第三問題第一項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 聖書において身体の部分が神に帰属させられているのは、 彼の働きを説明するためであり、 それは何らかの類似性にもとづくものである。 たとえば、眼の働きは見ることであり、 眼が神について語られる場合、それは、 感覚的な方法ではなく知性的な方法で見るという 彼の力を意味している。 そして、それは他の部分についても同様である。

[二八三三二]第一部第三問題第一項第四異論解答

第四のものについては次のように言わなければならない。 姿勢に関することがらも、 何らかの類似性にもとづくものでなければ、 神に帰属させられることはない。 たとえば、「座っている」と言われるのは、 彼の不動性と権威によるものであり、 「立っている」と言われるのは、 敵対するすべてのものを圧倒する彼の力によるものである。

[二八三三三]第一部第三問題第一項第五異論解答

第五のものについては次のように言わなければならない。 神はあらゆる場所に存在するのであるから、 彼に近づくというのは身体的な歩みによるものではなく 精神の状態によるものであり、 彼から離れるというのも同様である。 すなわち、近づくとか離れるとかというのは、 場所的な運動との類似性のもとに霊的な状態を示しているのである。

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