神学大全第一部第二問題第三項
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第三項

[二八三一五]第一部第二問題第三項第一異論

第三のものについては次のように進められる。 神は存在しないと思われる。

なぜなら、 もしも対立する二つのもののうちの一方が無限であったならば、 他方は完全に滅ぼされるであろうからである。 ところで、神というこの名称において理解されるものは、 無限の善であるような何かである。 したがって、もしも神が存在するならば、 いかなる悪も見出されないであろう。 ところが、世界には悪が見出される。 したがって、神は存在しない。

[二八三一六]第一部第二問題第三項第二異論

さらに、 あるものがより少ない根源によって成就され得るのであれば、 それよりも多くの根源は必要とはされない。 ところで、世界の中に出現するすべてのものは、 神は存在しないと仮定しても、 それ以外の根源によって成就され得ると思われる。 なぜなら、自然的なものは自然という根源に還元され、 意図にもとづくものは 人間的な理性または意志という根源に還元されるからである。 したがって、神が存在すると考えるいかなる必要性も存在しない。

[二八三一七]第一部第二問題第三項反対異論

しかし反対に、『出エジプト記』第三章では、 「私は、『私は存在する』という者である」という、 神自身から出た言葉が語られている。

[二八三一八]第一部第二問題第三項主文

私は答えて言わなければならない。 神が存在するということは 五つの道によって証明することができる。

第一の、そして比較的明瞭な道は、 運動という側面から導かれるものである。 すなわち、 この世界において何かが動かされているということは 確実なことであり、 それは感覚においても明白である。 ところで、動いているすべてのものは他者によって動かされている。 なぜなら、いかなるものも、 それに向かって動かされるところのものに対して 可能態にあるのでなければ動かされることがないのに対して、 何かを動かすものは、 現実態にある限りにおいて動かすのだからである。 すなわち、動かすというのは、 可能態から現実態へ何かを移行させることにほかならない。 ところが、 現実態にある何らかのものによって移行させられるのでなければ、 いかなるものも、可能態から現実態へ移行させることはできない。 たとえば、現実態において熱いものである火は、 可能態において熱いものである木材を現実に熱いものにする。 火は、そのようにして木材を動かし、変化させるのである。 ところで、 一つのものが 同じ観点について現実態にあると同時に可能態にもある、 ということはあり得ない。 それがあり得るのは、観点が異なる場合のみである。 たとえば、現実態において熱いものは、 同時に可能態においても熱いものであるということはあり得ないが、 同時に可能態において冷たいものであるというのは あり得ることである。 したがって、あるものが、 同じ観点について同じ方法で 動かすものでありかつ動かされるものであるということ、 すなわち自分自身を動かすということは、あり得ない。 したがって、 動かされているすべてのものは 他者によって動かされているのでなければならない。 したがって、もしも、 動かされているものがそれによって動かされているところのものが、 それ自身もまた動かされているならば、 それもまた他者によって動かされているのでなければならず、 その他者もまた 別の他者によって動かされているのでなければならない。 しかし、この連鎖が無限に遡行することはない。 なぜなら、もしも無限に遡行するならば、 いかなる第一の動者も存在しないことになり、その結果として、 その他のいかなる動者も存在しないことになるからである。 なぜなら、副次的な動者は、 第一の動者によって動かされるのでないならば 他者を動かすことがないからである。 それはたとえば、杖が、 それが手によって動かされるのでないならば 他者を動かすことがないのと同様である。 したがって、 いかなるものによっても動かされていない 何らかの第一の動者に到達することは必然である。 そして、すべての人々は、これが神であると理解している。

第二の道は、作出因という観点から導かれるものである。 すなわち、我々は、 可感的な事物の間に作出因の系列が存在することを見出す。 しかし、自分が自分の作出因であるというものは見出されず、 またそのようなものは存在することができない。 なぜなら、もしもそのようなものが存在するならば、 それは自分よりも先に自分が存在することになるが、 そのようなことはあり得ないからである。 ところで、作出因の系列において、 それを無限に遡行することはできない。 なぜなら、順序づけられたすべての作出因の系列において、 第一のものは中間のものの原因であり、 中間のものは最後のものの原因だからである。 このことは、 中間のものが複数の場合も一つだけの場合も同様である。 ところで、原因が取り除かれるならば、結果もまた取り除かれる。 したがって、 もしも作出因の系列において第一のものが存在しないならば、 最後のものも中間のものも存在しないであろう。 ところが、もしも作出因の系列において無限に遡行するならば、 第一の作出因は存在せず、 したがって最後の結果も中間の作出因も存在しないことになるが、 これが偽であるということは明らかである。 したがって、 何らかの第一の作出因が存在することを認めなければならない。 そして、すべての人々は、 それに対して神という名前を与えている。

第三の道は、 可能なものと必然的なものという観点から導かれるものであり、 それは次のような道である。 すなわち、我々は、 存在することも存在しないことも可能なものを世界の中に見出す。 なぜなら、世界の中には、生成し、 そして消滅するものが見出され、そしてその結果として、 存在することも存在しないことも可能なものが 見出されるからである。 ところで、 存在しているすべてのものがいかなる時点においても存在している、 ということはあり得ない。 なぜなら、存在しないことの可能なものは、 それが存在していない時点もあるからである。 したがって、もしもすべてのものが、 存在しないことの可能なものであるならば、 ある時点ではいかなるものも世界の中に存在していなかった、 ということになる。 ところで、もしもこれが真ならば、現在もなお、 いかなるものも存在していないであろう。 なぜなら、存在しないものは、 何らかの存在するものが関与しなければ 存在を開始しないからである。 したがって、もしもいかなる存在者も存在しなかったならば、 何かが存在を開始することはできず、その結果として、 現在に至ってもいかなるものも存在していないであろうが、 これが偽であるということは明らかである。 したがって、 すべてのものが可能的な存在者であるということはなく、 世界の中には何らかの必然的な存在者が存在しなければならない。 ところで、必然的に存在するすべてのものは、 自らの必然性の原因を他の何かから受け取るか、 それとも受け取らないかのいずれかである。 しかし、 自らの必然性の原因を他のものから受け取る必然的なものの系列を 無限に遡行することはできない。 これは、作出因の系列においてそれができないという、 すでに証明されたことと同様である。 したがって、 それ自体によって必然的に存在する何かを措定することが 必要である。 それは、他の何かから必然性の原因を受け取るのではなく、 他のものにとって必然性の原因となるものである。 そして、すべての人々は、それを神と呼んでいる。

第四の道は、世界の中に見出される等級から導かれる。 すなわち、世界の中には、善、真、高貴、 そしてそれらと同様の他のものについて、 それらがより多いものとより少ないものとが見出される。 ところで、さまざまなものについて、 「より多い」あるいは「より少ない」と言われるが、それは、 最高度にそうである何かに向かってどれだけ近づいているか という程度に応じてそのように言われるのである。 たとえば、より多く熱いものというのは、 最高度に熱いものにより多く近づいているもののことである。 したがって、最も真である何か、最も善である何か、 最も高貴である何かが存在する。 そしてその結果として、最高度に存在するものが存在する。 なぜなら、『形而上学』第二巻で言われているように、 最高度に真であるものは最高度に存在するものだからである。 ところで、 ある類において最高度にしかじかであると言われるものは、 その類に属するすべてのものの原因であり、たとえば、 最高度に熱いものである火は、すべての熱いものの原因である、 ということも同じ書物において言われている。 したがって、すべての存在者にとって、それらの存在、善、 そしてその他のあらゆる完全性の原因である何かが存在する。 そして我々はこれを神と呼んでいる。

第五の道は、諸事物の統制から導かれる。 我々は、認識を欠いているもの、すなわち自然の物体が、 目的のために働くのを見る。 このことは、 それらが最善のものを結果として得るために 常にあるいは頻繁に同じ方法で働くということから明らかである。 したがって、 それらのものが偶然によってではなく意図によって その目的を達成しているということは明らかである。 ところで、認識を持たないものは、 たとえば矢が射手によって方向づけられるように、 認識と知性を持つ何かによって方向づけられるのでなければ、 目的に向かって進むことができない。 したがって、 すべての自然の事物を目的に向けて秩序づけている 知性的な何かが存在する。 そして我々はこれを神と呼んでいる。

[二八三一九]第一部第二問題第三項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 「神は最高度に善であるから、 もしも彼が悪からでさえも善を作り出すほどに 全能であり善であるのでなかったならば、 いかなるものであろうと、 何らかの悪が自らの業のうちに存在することを 許さなかったであろう」 とアウグスティヌスは『提要』において述べている。 したがって、悪が存在することを許し、悪から善を引き出すことは、 神の無限の善性に属している。

[二八三二〇]第一部第二問題第三項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 定められた目的に向かって自然が働くのは 何らかの上位の作用者による方向づけにもとづくものであるから、 自然によって生ずることがらが 第一原因としての神に還元されることは必然である。 同様に、意図によって生ずることがらも、 人間的な理性や意志ではない何らかのより高い原因に 還元されなければならない。 なぜなら、 人間的な理性や意志は変化しやすく欠陥を持ち得るものであり、 すでに示されたように、可動的であり、 欠陥を持つことが可能であるすべてのものは、不動であり、 それ自身によって必然的である何らかの第一の根源にまで 還元されなければならないからである。

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