神学大全第一部第二問題・ 第二項
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第二項

[二八三〇七]第一部第二問題第二項第一異論

第二のものについては次のように進められる。 神が存在するということは 論証することが可能なことがらではないと思われる。

なぜなら、神が存在するということは信仰箇条だからである。 ところで、信仰に属することがらは、 論証することが可能なことがらではない。 なぜなら、論証というのは知識を生み出すものであるのに対して、 『ヘブライ人への手紙』第十一章において 使徒によって明らかにされているように、 信仰というのは見えないことがらについてのものだからである。 したがって、 神が存在するということは論証することが可能なことがらではない。

[二八三〇八]第一部第二問題第二項第二異論

さらに、論証の媒介は、 「それは何であるか」ということである。 ところが、ダマスケヌスが述べているように、我々は神について、 それが何であるかを知ることはできず、 我々にできるのはそれが何でないかを知ることのみである。 したがって、我々には、 神が存在するということを論証することはできない。

[二八三〇九]第一部第二問題第二項第三異論

さらに、 もしも神が存在するということが論証されるとするならば、 それは神の結果からの論証以外にはないであろう。 ところが、神の結果は神との比例関係を持たない。 なぜなら、神は無限であるのに対して結果は有限であり、 無限なものに対する有限なものの比率というものは 存在しないからである。 したがって、原因というものが、 それとの比例関係を持たない結果では 論証することができないものである以上、 神が存在するということを論証することはできないと思われる。

[二八三一〇]第一部第二問題第二項反対異論

しかし反対に、 使徒は『ローマの信徒への手紙』第一章において、 「見ることのできない神の性質は、造られたものによって知られ、 明らかに認められるのです」と語っている。 しかしこのことは、神が存在するということを、 造られたものによって論証することができるのでなければ 不可能であろう。 なぜなら、何かについて知られなければならない第一のことがらは、 それは存在しているのかということだからである。

[二八三一一]第一部第二問題第二項主文

私は答えて言わなければならない。 論証には二種類のものがある。 一つは、原因によるものであり、先験的な論証と呼ばれる。 これは、端的な意味でより先にあるものによる論証である。 他の一つは、結果によるものであり、後験的な論証と呼ばれる。 これは、我々にとってより先にあるものによる論証である。 すなわち、 我々にとって結果のほうがその原因よりも明らかである場合には、 我々は結果から原因の認識に向かって進むのである。 ところで、いかなる結果からでも、 それに固有の原因が存在することを論証することは可能である (ただし、 その結果のほうが我々によりよく知られている場合に限られる)。 なぜなら、結果というものが原因に依存するものである以上、 結果が存在するならば その原因が先立って存在することは必然だからである。 したがって、神が存在するということは、 それが我々にとって自明ではない限りにおいて、 我々に知られている結果によって 論証することが可能なことがらである。

[二八三一二]第一部第二問題第二項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 神が存在するということ、および、 自然理性によって神について知られ得る、 それに類する他のことがらは、 『ローマの信徒への手紙』第一章で言われているように、 信仰箇条ではなく、信仰箇条に先行するものである。 なぜなら、恩寵が自然を前提とし、 完成が完成され得るものを前提とするのと同様に、 信仰は自然な認識を前提とするからである。 ただし、 それ自体としては論証され得ることがらであり 知られ得ることがらであるものが、 論証を理解しない人によって、 信じられるべきことがらとして受け入れられる、 ということを妨げるものは何もない。

[二八三一三]第一部第二問題第二項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 原因が結果によって論証される場合には、 原因が存在することを証明するために、 原因の定義の場所に結果を使用する必要がある。 そしてこのことは、神に関しては特に必要となる。 なぜなら、何かが存在することを証明するためには、媒介として、 「その名称は何を意味しているのか」 ということを把握している必要があるからである。 しかし、 「それは何であるか」ということを把握している必要はない。 なぜなら、「それは何であるか」という問いは、 「それは存在するか」 という問いののちに続くものだからである。 ところで、のちに示されるであろうように、 神の名称はその結果から与えられたものである。 したがって、 神が存在するということをその結果によって論証する場合に、 我々は、 「神」というこの名称が何を意味しているのかということを 媒介として使用することができる。

[二八三一四]第一部第二問題第二項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 原因との比例関係を持たない結果によって その原因についての完全な認識を得るということはできない。 しかし、すでに述べられたように、どのような結果からであろうと、 その原因が存在するということは 我々にとって明らかに論証されることができる。 したがって、 神が存在するということを神の結果から論証することは可能である。 ただし、神の結果によって神をその本質において認識することは、 我々には不可能である。

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