神学大全第一部第二問題第一項
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第一項

[二八二九九]第一部第二問題第一項第一異論

第一のものについては次のように進められる。 神が存在するということは自明であると思われる。

なぜなら、我々にとって自明であると言われるのは、 それらの認識が我々のうちに 本性的に内在していることがらのことだからである。 たとえば第一原理については、このことは明らかである。 ところで、ダマスケヌスは彼の書物の冒頭で、 「神が存在するという認識は すべての人間に本性的に植えつけられている」と述べている。 したがって、神が存在するということは自明である。

[二八三〇〇]第一部第二問題第一項第二異論

さらに、自明であると言われることがらというのは、 その名辞について認識したときに ただちに認識されることがらのことである。 哲学者は、『分析論後書』第一巻において、 これを論証の第一原理に帰属させている。 たとえば、全体とは何であるか、 そして部分とは何であるかということが知られたならば、 全体はすべてその部分よりも大きいということが ただちに知られる。 ところで、 神という名称が何を意味しているかということが理解されれば、 神が存在するということはただちに認識される。 なぜなら、この名前によって表示されているのは、 それ以上に大きなものを表示することができないものだからである。 ところで、実在の世界においても知性においても存在するものは、 知性においてのみ存在するものよりも大きい。 したがって、神というこの名称が理解されたとき、 ただちに神は知性において存在し、 そして実在の世界においても存在するということが帰結される。 したがって、神が存在するということは自明である。

[二八三〇一]第一部第二問題第一項第三異論

さらに、真理が存在するということは自明である。 真理が存在することを否定する者は、 真理が存在することを承認しているのである。 なぜなら、もしも真理が存在しないとするならば、 真理が存在しないということが真になるからである。 ところで、もしも何か真であることがらが存在するとするならば、 真理は存在しなければならない。 そして、『ヨハネによる福音書』第十四章で、「私は、道、真理、 そして命です」と述べられているように、 神というのはそれ自体が真理である。 したがって、神が存在するということは自明である。

[二八三〇二]第一部第二問題第一項反対異論

しかし反対に、 何人といえども 自明なことがらとは反対のことを考えることはできない。 このことは、 『形而上学』第四巻および『分析論後書』第一巻において、 論証の第一原理をめぐって 哲学者が述べていることから明らかである。 ところが、『詩編』第五十二編で、 「神はいないと愚かな者は心の中で言った」 と述べられているように、 神が存在するということについては、 それとは反対のことを考えることも可能である。 したがって、神が存在するということは自明ではない。

[二八三〇三]第一部第二問題第一項主文

私は答えて言わなければならない。 ことがらが自明であるということには二通りの場合がある。 一つは、 それ自体としては自明であるが我々にとっては自明ではない という場合であり、 もう一つは、 それ自体としても我々にとっても自明であるという場合である。

そもそも、ある命題が自明であるのは、 主語の概念の中に述語が含まれているからである。 たとえば、「人間は動物である」という命題が自明であるのは、 人間という概念の中に動物という概念が含まれているからである。 したがって、述語についても主語についても、 それが何であるかということがすべての人に知られているならば、 その命題はすべての人にとって自明であろう。 このことは、論証の第一原理においては明らかである。 それらの原理を構成している、たとえば存在者と非存在者、 全体と部分、等々の名辞は、 誰一人として知らない者のいない共通のものである。

ところが、述語と主語について、 それが何であるかということを知らない人々が存在する場合には、 たとえその命題がそれ自体としては自明であるとしても、 その命題の述語と主語について知らない人々にとっては、 その命題は自明ではないであろう。 したがって、 ボエティウスが 『デ・ヘブドマディブス』において述べているとおり、 たとえば「非物体的なものは場所のうちには存在しない」 という命題のように、 自明であると共通に認識されるのが 知者たちの間においてのみであるような命題も存在する。

したがって、私は次のように言おう。 「神は存在する」という命題は、それ自体としては自明である。 なぜなら、この命題は、述語と主語とが同一だからである。 すなわち、のちに明らかにされるであろうように、 神というのはそれ自体の存在のことなのである。 しかし、我々は神とは何であるかということを知らないので、 その命題は我々にとって自明ではなく、 論証されることを必要とするものである。 その命題を論証するための手がかりは、 本性的にはそれほど明らかには知られていないけれども、 我々にとってはより明らかに知られているもの、 すなわち神に起因する結果である。

[二八三〇四]第一部第二問題第一項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 神が存在するという認識は、 ある一般的で混乱した方法によって 我々に本性的に植えつけられている。 すなわち、 神が人間の至福である限りにおいてそのように認識されるのである。 なぜなら、人間というのは本性的に至福を熱望するものであり、 人間によって本性的に熱望されているものは、 人間によって本性的に認識されているはずだからである。 しかしこのことは、 神が存在するということを 我々が無条件に認識しているということではない。 それはちょうど、 誰かがこちらに向かって来ることを認識するということが、 たとえ来る者がペテロであるとしても、 ペテロを認識するということではないのと同様である。 なぜなら、多くの人々が、人間にとっての完全な善、すなわち至福、 というのは富のことであると考えているし、 それは快楽であると考えている人々もいるし、 さらに何か別のものであると考えている人々もいるからである。

[二八三〇五]第一部第二問題第一項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 おそらく、神というこの名称を聞く者のうちには、 それ以上に大きなものを考えることができない何かが この名称によって表示されているとは解釈しない者も 存在するであろう。 現に、神は物体であると信じていた人々さえ存在するのであるから。 また、神というこの名称によって、ここで言われているもの、 すなわちそれ以上に大きなものを考えることができないものが 表示されていると誰もが解釈していると仮定したとしても、 その名称によって表示されるものが 実在の世界において存在すると誰もが解釈している という帰結がそこから得られるわけではなく、 単に、 そのようなものが 知性によって把握されると誰もが解釈している という帰結が得られるにすぎない。 それ以上に大きなものを考えることができない何かが 実在の世界において存在するということが承認されない限り、 それが実在の世界において存在するという結論は導かれ得ない。 そして、神は存在しないと主張する人々は、 それを承認しないのである。

[二八三〇六]第一部第二問題第一項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 一般的な真理が存在するということは自明である。 しかし、第一真理が存在するということは、 我々にとって自明ではない。

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