神学大全第一部第一問題・ 第十項
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第十項

[二八二九〇]第一部第一問題第十項第一異論

第十のものについては次のように進められる。 聖書は、一つの字句のもとに、歴史的または字義的な意味、 寓意的な意味、転義的または道徳的な意味、そして上昇的な意味、 という複数の意味を持つものではないと思われる。

なぜなら、一つの書物のうちに含まれる多様な意味は、 混乱と欺瞞を生み、論証の堅固さを骨抜きにするからである。 その結果、論証は、多義的な命題から前進することはなく、 その多義性によって何らかの誤謬へと導かれる。 ところで、聖書は、 いかなる誤謬をも交えることなく真理を明らかにする効力を 持つものでなければならない。 したがって、聖書においては、 一つの字句のもとに複数の意味が伝えられるということは、 あってはならないことである。

[二八二九一]第一部第一問題第十項第二異論

さらに、アウグスティヌスは、 『信仰の効用について』において、 「旧約聖書と呼ばれる書物は四重の意味で伝えられている。 すなわち、歴史的、原因的、対比的、 寓意的な意味である」と語っている。 しかし、これらの四つの意味は、 前述の四つの意味とはまったく別のものであると思われる。 したがって、 聖書の同一の字句が 前述の四つの意味にしたがって解釈されるというのは、 適切なことであるとは思われない。

[二八二九二]第一部第一問題第十項第三異論

さらに、前述の意味のほかに、 それらの四つの意味の中には含まれていない、 比喩的な意味というものが見出される。

[二八二九三]第一部第一問題第十項反対異論

しかし反対に、 グレゴリウスは『道徳論』第二十巻において次のように述べている。 「聖書は、 まさしくその叙述の方法によってすべての学を超越している。 なぜならそれは、一つの同じ言葉によって、 出来事を語りつつ秘義を明らかにするからである」

[二八二九四]第一部第一問題第十項主文

私は答えて言わなければならない。 聖書の著者は神である。 神は、 ことがらを表示するために言葉を使うことができるだけではなく (それだけならば人間にもすることができる)、 ことがらを表示するために事物それ自体を使うこともまた 彼の能力に属している。 したがって、 言葉が何らかのことがらを表示するというのは すべての学に共通していることであるが、 この学は、 言葉によって表示された事物それ自体がさらに何事かを表示する という特性を持っている。

したがって、言葉が事物を表示するという第一の表示方法は、 第一の意味に関わっている。 それは歴史的または字義的な意味である。 それに対して、 言葉によって表示された事物がさらに別の事物を表示する という表示方法は、 霊的な意味と呼ばれる。 霊的な意味は、字義的な意味を基礎とし、それを前提とする。

ところで、この霊的な意味は、三つに分類される。 すなわち、 『ヘブライ人への手紙』第七章において使徒が語っているように、 古い法は新しい法の祖型である。 そして、新しい法それ自体もまた、 ディオニュシオスが『教会位階論』において語っているように、 未来の栄光の祖型である。 さらに、新しい法において、 頭である人物によってなされたことがらは、 我々がしなければならないことがらを示す記号である。 したがって、 古い法に属することがらが 新しい法に属することがらを表示する限りにおいて、 そこに寓意的な意味が成立する。 また、キリストによってなされたことがら、 あるいはキリストを表示する者たちによってなされたことがらが、 我々がしなければならないことがらを示す記号である限りにおいて、 そこに道徳的な意味が成立する。 また、それらのことがらが、 永遠の栄光のうちにあることがらを表示する限りにおいて、 そこに上昇的な意味が成立する。

ところで、 字義的な意味というのは著者が意図しているものであり、 聖書の著者は、 その知性によってすべてのものを同時に把握する神なのであるから、 アウグスティヌスが『告白』第十二巻において述べているように、 字義的な意味に関して、 聖書の一つの字句のうちに複数の意味があるとしても、 それは不似合なことではない。

[二八二九五]第一部第一問題第十項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 このような意味の多様性は、 同名異義の多義性あるいはその他の種類の多義性を 生じさせるものではない。 なぜなら、すでに述べられたように、 意味にこのような多様性があるのは、 一つの言葉が多くのことがらを表示するからではなく、 言葉によって表示される事物それ自体が 他の事物を示す記号であり得るからである。 したがって、いかなる混乱も聖書において生じることはない。 なぜなら、すべての意味は、一つの意味、 すなわち字義的な意味を基礎としているからであり、 ドナトゥス派のヴィンケンティウスに反駁する書簡の中で アウグスティヌスが述べているように、 論証は、字義的な意味からのみ引き出され得るのであって、 寓意的に語られていることからは引き出され得ないからである。 しかし、このことによって聖書から何かが失われるわけではない。 なぜなら、霊的な意味のもとに含まれている、 信仰に必要なことがらのうちで、 聖書のどこか別の場所で字義的な意味によって明示的に 伝えられていないものはないからである。

[二八二九六]第一部第一問題第十項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 そこで挙げられている意味のうち、歴史的、原因的、 対比的な意味という三つの意味は、 字義的な意味という一つの意味に付随するものである。 なぜなら、アウグスティヌス自身が説明しているように、 歴史的な意味というのは 単に何かが述べられるだけの場合に成り立つものであり、 原因的な意味というのは 語られていることがらの原因が示される場合、 たとえば、『マタイによる福音書』第十九章で、主が、 モーセはなぜ妻を離縁する許しを人々に与えたのか という理由について、 それは彼らの心が頑迷だったからであると説明した、 そのような場合に成り立つものであり、 対比的な意味というのは 一方の聖書の真理と他方の聖書の真理とが矛盾しないということが 示される場合に成り立つものだからである。 それに対して、挙げられている四つの意味のうちで、 寓意的な意味のみは、三つの霊的な意味を総合したものである。 同様にサン・ヴィクトルのフーゴーも『命題集』第三巻において、 上昇的な意味は寓意的な意味のもとに包含されるものである と位置づけ、 歴史的、寓意的、 転義的な意味という三つの意味のみを区別している。

[二八二九七]第一部第一問題第十項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 比喩的な意味は字義的な意味のもとに包含されるものである。 なぜなら、言葉によって表示されることがらは、 あるものはその言葉に固有の意味によるものであり、 あるものは比喩によるものであるが、後者の場合、 比喩そのものではなく比喩によって表示されていることがらが、 字義的な意味だからである。 たとえば、聖書が神の腕について述べている場合、 その字義的な意味は、 神にそのような物体的な器官があるということではなく、 その器官によって表示されているもの、 すなわち働きの力があるということである。 このことから、 聖書の字義的な意味の中に虚偽が混入することは 決してありえないということは明らかである。

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