神学大全第一部第一問題第九項
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第九項

[二八二八二]第一部第一問題第九項第一異論

第九のものについては次のように進められる。 聖書は比喩を使うべきではないと思われる。

なぜなら、最下位の教えに固有のことがらは、 この学にふさわしいものではないと思われるからである。 この学がすべての学の中で最も高い位置を占めていることは、 すでに述べたとおりである。 ところで、 さまざまな類似と象徴によって表現するというのは 作詩法に固有のものであり、 作詩法というのはすべての教えの中で最下位のものである。 したがって、そのような類似を使うことは、 この学にふさわしいものではない。

[二八二八三]第一部第一問題第九項第二異論

さらに、この教えは、 真理を明らかにすることがその使命であると思われる。 真理を明らかにする人々に対して 報酬が約束されているのはそのためであり、 『シラ書』第二十四章でも、 「私を輝かせる者は永遠の生命を得るであろう」 と言われている。 ところが、 真理というものは、 そのような類似を使うことによって隠されてしまうものである。 したがって、 物体的な事物との類似のもとに神的なことがらを伝えるというのは、 この教えにふさわしいものではない。

[二八二八四]第一部第一問題第九項第三異論

さらに、被造物は、 崇高であればあるほど神に類似したものに接近していく。 したがって、 もしも神を表現するために被造物から何かが採用されるとすれば、 そのような転用は、 より崇高な被造物から重点的に採用されるべきであって、 最下位の被造物からは採用されるべきではなかったであろう。 しかし、聖書にはしばしば後者の転用が見出される。

[二八二八五]第一部第一問題第九項反対異論

しかし反対に、『ホセア書』第十二章では、 「私は彼らに多くの幻を示し、 そして預言者たちの手によって類似を示した」と言われている。 ところで、 類似のもとに何かを伝えるというのは比喩的なことである。 したがって、比喩を使うことは聖なる教えに適合している。

[二八二八六]第一部第一問題第九項主文

私は答えて言わなければならない。 物体的なものとの類似のもとに 神的なことがらや霊的なことがらを伝えるというのは、 聖書にふさわしいことである。

そもそも、神は、 万物それぞれの本性に適合した方法で 万物に注意を払っているのである。 ところで、人間にとっては、 可感的なことがらを通じて可知的なことがらに到達することが、 その本性に適合している。 なぜなら、 我々のすべての認識は感覚から発生するからである。 したがって、聖書において、 霊的なことがらが 物体的なものの比喩のもとに我々に伝えられるというのは、 適切なことである。 そして、ディオニュシオスが『天上位階論』第一章で、 「神の光線は、 それらがさまざまな聖なるベールに包まれているのでなければ、 我々を照らすことは不可能である」 と語っているのはこのことである。

さらに、 物体的なものとの類似のもとに霊的なことがらが提示され、 その結果として、 可知的なことがらを それ自体として理解することに適性のない未熟な人々でさえも 聖書を理解することができるようになるということは、 分け隔てなく万人に提示されている(このことについては、 『ローマの信徒への手紙』第一章で、 「知恵のある人々にも知恵のない人々にも私は責任を負っています」 と言われているとおりである) 聖書にとってふさわしいことである。

[二八二八七]第一部第一問題第九項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 詩人が比喩を使うのは詩的表現のためである。 なぜなら、 詩的表現は人間にとって本性的に心地のよいものだからである。 しかし、聖なる教えが比喩を使うのは、すでに述べたとおり、 必然性と有用性のためである。

[二八二八八]第一部第一問題第九項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 ディオニュシオスも語っているとおり、神的な啓示の光線は、 それを包んでいる可感的な形象によって失われるものではなく、 それ自身の真理の中に残留している。 その結果として、啓示の光線は、 啓示が与えられた精神が類似のうちに安住することを許さず、 可知的な認識に向けてそれらの精神を高める。 そして、啓示が与えられた人々を通じて、 他の人々もこれらの可知的なことがらについて教えられる。 聖書の一つの場所において比喩のもとに伝えられていることがらが、 別の場所においてさらに直截に説明されているのは、 そのためである。 そしてさらに、形象の中に真理が隠されているということは、 熱心な人々のための訓練として有益である。 そしてそれは、 不信心な人々からの嘲笑に対する防御としても有益である。 それらの人々については、『マタイによる福音書』第七章で、 「聖なるものを犬に与えてはいけません」と言われている。

[二八二八九]第一部第一問題第九項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 ディオニュシオスが『天上位階論』第二章で教えているように、 聖書の中で神的なことがらが 卑近な物体の形象のもとに伝えられているというのは、 高貴な物体の形象のもとに伝えられるよりも いっそう適切なことである。 これには三つの理由がある。

第一の理由は、それによって人間の精神が、 より大きく誤謬から解放されるからである。 すなわち、神的なことがらについて語る上で、 それらの物体がそれらに固有の意味で使われているのではない、 ということは明らかだからである。 もしも、 神的なことがらが 高貴な物体の形象のもとに叙述されていたとするならば、 その点について疑念が生じていたかもしれない。 特に、 物体よりも高貴ないかなるものも 考えることのできない人々については、 その懸念がある。

第二の理由は、この方法が、 我々がこの世において神について持つ認識に、 より適合しているからである。 なぜなら、神については、 それが何であるかということよりも それが何でないかということのほうが 我々にとっていっそう明らかだからである。 したがって、それらの物体との類似は、 それらが神から遠く隔たっていればいるほど、 神というのは我々がそれについて言ったり考えたりすることがらを 超えたものであるということについて、 より正しい判断を我々にさせることになる。

第三の理由は、そのような形象によって、神的なことがらが、 それを伝えるに値しない人々から いっそう深く隠されることになるからである。

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