神学大全第一部第一問題第八項
前のページ次のページ

第八項

[二八二七六]第一部第一問題第八項第一異論

第八のものについては次のように進められる。 この教えは論証的ではないと思われる。

なぜなら、 アンブロシウスが『カトリックの信仰』第一巻において、 「信仰が求められているところでは論証を遠ざけよ」 と語っているからである。 ところで、この教えにおいては、特に信仰が求められる。 『ヨハネによる福音書』第二十章で、 「これらのことが書かれたのは、 あなたがたが信じるためである」 と述べられているのはそのためである。 したがって、聖なる教えは論証的ではない。

[二八二七七]第一部第一問題第八項第二異論

さらに、もしもそれが論証的であるとするならば、それは、 権威から論証されるか理性から論証されるかのいずれかである。 もしも権威からであるとするならば、そのことは、 この教えの品格にふさわしいとは思われない。 なぜなら、ボエティウスによれば、 立証の中で最も薄弱なものは権威による立証だからである。 また、もしも理性からであるとするならば、そのことは、 この教えの目的にふさわしくない。 なぜなら、グレゴリウスの『教話』において、 「人間の理性が信仰に検証を与えるのだとすれば、 信仰は価値を持たない」と述べられているとおりだからである。 したがって、聖なる教えは論証的ではない。

[二八二七八]第一部第一問題第八項反対異論

しかし反対に、『テトスへの手紙』第一章では、 司教について次のように述べられている。 「教えに適う信頼するべき言葉を守る人でなければなりません。 なぜなら、健全な教えによって人々を励ましたり、 反対する者たちに対して 論駁することができる人でなければならないからです」

[二八二七九]第一部第一問題第八項主文

私は答えて言わなければならない。 他の諸学が論証を使うのは、その原理を証明するためではなく、 それらの学自身に含まれているその他のことがらを 原理から証明するためである。 同様に、この教えが論証を使うのも、 その原理である信仰箇条を証明するためではなく、 それらから出発して、それら以外の何かを証明するためである。 使徒が『コリントの信徒への手紙一』第十五章において、 人間一般の復活を証明するために キリストの復活から論証を進めているのは、 その一例である。

ただし、次のことを心に留めておく必要がある。 哲学的な諸学においては、下位の学は、その原理を証明せず、 原理を否定する者を相手として議論することもなく、 これを上位の学に委ねる。 それに対して、それらの諸学のうちで最も上位の学、 すなわち形而上学は、その原理を否定する者を相手として議論する。 ただしそれは、反対する者が原理の一部を承認する場合に限られる。 彼がいかなる原理も承認しない場合、 彼と議論することは不可能である。 しかしその場合でも、 彼が反対する論拠を論破することは可能である。

聖書もまた、それよりも上位のものを持たないので、 その原理を否定する者と議論する。 ただし、議論が成立するためには、 神の啓示によって与えられることがらのうちのいくつかを、 反対する者が承認していなければならない。 たとえば、我々は、 異端者に対しては聖なる教えの権威にもとづいて議論し、 信仰箇条の一項を否定する者に対しては 別の一項にもとづいて議論する。 しかし、反対する者が、 神から啓示されたことがらを何一つ信じない場合、 条理によって信仰箇条を証明する手段は、もはや残されていない。 しかしその場合でも、 もしも彼が信仰に反する論拠を持ち込むならば、 それを論破する手段は残されている。 なぜなら、信仰というものは誤りのない真理に依拠しており、 そして真理に反することがらが証明されることはあり得ないので、 信仰に反して持ち込まれる証明というのは、論証ではなく、 論破することのできる論難にすぎない、 ということは明らかだからである。

[二八二八〇]第一部第一問題第八項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 人間の理性による論証は、 信仰に関することがらを証明するためにあるという 位置づけを持つものではない。 しかし、それにもかかわらずこの教えが論証を使うのは、 すでに述べられたとおり、 信仰箇条からそれ以外のことがらを証明するためである。

[二八二八一]第一部第一問題第八項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 権威からの論証こそが、何よりもこの教えを特徴づけるものである。 この教えの原理は啓示によって得られるものであり、 啓示が与えられた人々の権威が信じられなければならないのは そのためである。 そして、このことはこの教えの品格を低めるものではない。 なぜなら、 人間の理性の上に基礎づけられた権威による立証は 最も薄弱なものであるけれども、 神の啓示の上に基礎づけられた権威による立証は、 最も強力なものだからである。

それにもかかわらず、聖なる教えは人間の理性さえも使用する。 ただし、それは信仰を証明するためではない。 なぜなら、 そのようなことをすれば信仰の価値が失われるからである。 この教えが人間の理性を使用するのは、 この教えにおいて伝えられることがら以外の何かを 明らかにするためである。 恩寵は自然を廃棄するものではなくそれを完成させるものなので、 あたかも意志の自然な傾向が慈愛に従順であるのと同様に、 自然理性は信仰に奉仕しなければならない。 使徒が『コリントの信徒への手紙二』第十章において、 「すべての思考をとりこにしてキリストに服従させます」 と語っているのはそのためである。 したがって、 哲学者たちが自然理性によって真理を知ることができた場合には、 聖なる教えは哲学者の権威をも使用する。 『使徒言行録』第十七章で、パウロがアラトゥスの言葉を引用して、 「あなたがたの詩人たちのうちのある者が、 『我々は神の子孫である』と言っているとおりです」 と語っているのは、 その一例である。

しかし、聖なる教えがそのような権威を使用するのは、 外部的でかつ蓋然的な論拠としてである。 それに対して、聖なる教えが聖書正典の権威を使用するのは、 教えに固有のものとしてであり、 必然性にもとづいて議論するためのものとしてである。 そして、そのほかの教会博士たちの権威は、 教えに固有のものではあるが 蓋然的なものにもとづく論拠として使用される。 なぜなら、我々の信仰は、 正典を書いた使徒たちと預言者たちに与えられた 啓示に依拠するものであって、 たとえそのほかの博士たちに啓示が与えられたとしても、 そのような啓示に依拠するものではないからである。 アウグスティヌスが、 ヒエロニムスに送った書簡の中で次のように述べているのは、 以上の理由によるものである。 「聖書のうちで正典と呼ばれる書物のみに対して敬意を払うことを 私は学びました。 その敬意のあまり、私は、それらの著者たちのうちのいかなる者も、 それらを書くに際して誤りを犯さなかったと、 きわめて強く確信しているほどです。 しかし私は、それ以外の書物については、 たとえそれらの著者たちが 聖性においても教えにおいても卓越した人々であるとしても、 そのように考えあるいは書き記したのが彼らだからという理由で、 そこに書かれていることがらは真なのだ、 とは思わないようにしてそれらを読んでいます」

神学大全第一部第一問題第八項
前のページ次のページ