神学大全第一部第一問題・ 第六項
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第六項

[二八二六二]第一部第一問題第六項第一異論

第六のものについては次のように進められる。 この教えは知恵ではないと思われる。

なぜなら、いかなる教えであろうと、 自身の原理を別のところから借用しているとすれば、 それは知恵という名前には値しないからである。 すなわち、「知者にとってふさわしいのは、 秩序づけられることではなく秩序づけることである」 (『形而上学』第一巻)。 ところで、この教えは、前述したことから明らかなように、 自身の原理を別のところから借用している。 したがって、この教えは知恵ではない。

[二八二六三]第一部第一問題第六項第二異論

さらに、知恵には、 他の諸学の原理を証明するという役割がある。 知恵が諸学の頭であると言われるのはそのためであり、 それは『倫理学』第六巻が明らかにしているとおりである。 しかし、この教えは他の諸学の原理を証明しない。 したがって、それは知恵ではない。

[二八二六四]第一部第一問題第六項第三異論

さらに、この教えは研究によって獲得される。 ところが、 知恵は神から注ぎ込まれることによって得られるものであり、 『イザヤ書』第十一章によって明らかなように、 聖霊の七つの賜物のうちに数えられるのはそのためである。 したがって、この教えは知恵ではない。

[二八二六五]第一部第一問題第六項反対異論

しかし反対に、『申命記』第四章では、律法の始まるところで、 「これは、 諸国の民の前に示される我々の知恵であり良識である」 と言われている。

[二八二六六]第一部第一問題第六項主文

私は答えて言わなければならない。 この教えは、人間のすべての知恵のうちで最高の知恵である。 それは、決して単なる特定の分野における知恵ではなく、 端的な意味における知恵である。

そもそも、 秩序づけることと判断することが知者の知者たる所以であり、 そして判断というのは、 より高い原因によって より低いことがらについてなされるものであるから、 いかなる分野においても、 その分野における最も高い原因について考察する者が 知者と呼ばれる。 たとえば、建築の分野においては、 家の形状について構想を練る技術者は、 材木を切ったり石を準備したりする下位の技術者とは区別して、 知者と呼ばれ、そして建築家と呼ばれる。 『コリントの信徒への手紙一』第三章で、 「私は知恵のある建築家のように土台を据えました」 と言われているのはそのためである。 そしてさらに、すべての人間の生活にかかわる分野において、 思慮のある人が知者と呼ばれるのは、 その人が人間の行為をしかるべき目的に向けて 秩序づけるからである。 『箴言』第十章で、 「知恵は人間に対する思慮である」 と言われているのはそのためである。 したがって、 すべての世界の最も高い原因である神について 端的に考察する者こそが、 最も厳密な意味で知者と呼ばれる。 アウグスティヌスが 『三位一体論』第十二巻で明らかにしているように、 知恵は神的なことがらについての認識である と言われるのはそのためである。

ところで、聖なる教えは、最も固有の対象として、 最も高い原因である神について論ずる。 聖なる教えは、単に、 被造物を通じて認識され得ることがらとして 神について論ずるだけではない (哲学者たちはそのように神を認識した。 『ローマの信徒への手紙』第一章で、 「神について知られ得ることがらは、 彼らにとって明らかです」と言われているのはそのことである)。 神自身について神のみに知られ得ることがらであり、 他の人々に対しては啓示によって伝えられることがらとしてもまた、 聖なる教えは神について論ずるのである。

したがって、 聖なる教えは最も厳密な意味で知恵と呼ばれる。

[二八二六七]第一部第一問題第六項第一異論解答

したがって、 第一のものについては次のように言わなければならない。 聖なる教えは、 自身の原理を何らかの人間的な学から借用するのではなく、 神の知から借用する。 そして神の知というのは、 我々のすべての認識がそれによって秩序づけられるところの 最高の知恵のことである。

[二八二六八]第一部第一問題第六項第二異論解答

第二のものについては次のように言わなければならない。 他の諸学の原理は、それ自身によって明らかであり、 証明することのできないものであるか、 または何らかの別の学において何らかの自然理性によって 証明されるものであるかのいずれかである。 ところで、この学に固有の認識は、 啓示によるものであって自然理性によるものではない。 したがって、この学が関与するのは、 他の諸学の原理を証明することではなく、 それらについて判断することのみである。 すなわち、他の諸学において見出される、 この学の真理に背反することがらは、それが何であろうと、 ことごとく偽として排除される。 『コリントの信徒への手紙二』第十章で、「私たちは、浅慮と、 神の知識に反するすべての高慢とを打ち倒します」 と言われているのはこのことである。

[二八二六九]第一部第一問題第六項第三異論解答

第三のものについては次のように言わなければならない。 判断は知者に属しているが、判断には二つの方法があるので、 知恵もまた二つの意味に解釈される。

すなわち、判断するということは、 一つの場合には傾向という方法によってなされる。 たとえば、徳という能力状態を持っている人が、 徳にしたがって行動するべきことがらについて正しく判断するのは、 彼がそれに対する傾向を持っている限りにおいてである。 『倫理学』第十巻において、 徳のある人は 人間的な行為の尺度であり基準であると言われているのも、 そのことにもとづいている。 もう一つの場合には、判断は認識という方法によってなされる。 たとえば、倫理的な学について教育を受けた人は、 たとえ彼が徳を持っていないとしても、 徳のある行為について判断することができる。

ところで、 神的なことがらについて第一の方法で判断することは、 聖霊の賜物とみなされている知恵に属している。 そのことについては、『コリントの信徒への手紙一』第二章で、 「霊的な人は万事を判断します」云々と言われているとおりである。 また、ディオニュシオスが『神名論』第二章で、 「ヒエロテウスが学者であるのは、 単に学習によるものであるだけではなく、 神的なことがらの受容によるものでもある」 と語っているのもそのことである。 それに対して、第二の方法で判断することは、 この教えに属している。 そしてこの教えは、 その原理は啓示から得られるものであるにもかかわらず、 研究によって得られるものなのである。

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